浮力

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 その日私は予想に反し、甲子園の音で目が醒めた。覚醒してゆくのと比例して、むくむくと苛立ちが顔を出す。けれどもすぐに、消え失せる。それは祖父の耳が、遠くなりつつあることの、寂しさが取って代わっていった。  眠い目をこすり、居間へゆく。ランニング姿をした祖父が、座椅子に深々と腰掛けて、テレビの向こうを見守っている。遠い関西の空の下、サイレンの音がなっていた。そして、祖父に見守られながら、球児たちは駆けてゆく。彼らの夏が始まった。 「おはよ」 祖父の背中に、私は言った。 「おお、遙。おはよう」  祖父はチラリと私を見ると、すぐにテレビに向き直る。  夏の暑さと寝不足で、体が鉛のようだった。 「遙、今日は何か予定はあるかい?」 「優菜と昼から図書館で勉強」 「そうか」  祖父はその後、何かを言おうとしたようだった。けれどもその言葉すら、観客席の応援が、すぐに何処かへ押し流す。祖父の心はもう既に、甲子園へと発っていた。  私は祖父の背中を見つめている。差し込む夏の太陽が、あまりにも明るすぎるせいか、影の中に腰かける、祖父の背中が小さく見えた。 「おじいちゃん」 「ん?」  今度は、振り向きすらしない。 「お昼、スイカがいい」 「腹減るぞ」 「いい。食欲無い」  祖父は少しだけ押し黙る。  テレビの中で、歓声が爆ぜた。祖父の背中が、テレビの方へと吸い寄せられる。やがて、テレビの歓声は、巨大なため息へと置き換わる。祖父はぽつりとつぶやいた。 「私はそうめん、食べるからな」  それ以後、一言もしゃべらずテレビを見てた。  正確に言えば「おお」とか「ああ」とか以外の言葉は、喋らなかったというべきだろうか。  私は何処にでもいそうなアナウンサーが、卒業生のおたよりを読み上げだしたあたりから、完全に飽きて外に出る。  外はもう、すっかり真夏日になっていた。見渡す限り、田園と木と畦道が続く。朝だと言うのに、陽炎が遠くで揺れている。  夏に、嫌気がさしてくる。汗が頬を伝うのを感じ、左手で拭って家へと戻る。そして扇風機を「強」にして、タオルをお腹にかけ目を閉じた。遠く、祖父が台所に立つ音がする。ネギを刻んでいる音と、ふつふつとお湯が煮える音。そして大きな瓜科の食べ物を、包丁で割っているような音。私はニヤリと微笑んで、祖父が起こしに来るのを待った。
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