浮力

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「最高の朝飯だ」  祖父がキュウリを頬張りながらそう言った。 「うん」  私はトマトにかじりつく。ほのかな甘みと酸味の後で、少しだけ土の香りが抜けた。 「おいしい」 「だろう」  縁側で、入道雲の下、私たちは無言で野菜を食べる。  キュウリを噛む音、砕く音。トマトにかじりついた後、あふれる果汁を啜る音。 「おじいちゃん」 「ん?」 「私が遠くの大学行って、ここを出たらさみしいよね」  祖父は黙ってキュウリを噛んだ。そして、ぼりぼりと咀嚼する。 「私の事と、お金のことは、気にするな」キュウリをゆっくりと飲み込んで、静かに祖父はそう言った。  そして祖父は手についた水を、手ぬぐいで拭って立ち上がる。去り際、私の頭をぽんぽんとして「遙も、大人になるんだなあ」と感慨深そうにつぶやいた。  大人。私は、昨日のことを思い出す。優菜は何を言おうとしたんだろう。 答えは出ない。目の前に、ただ夏があるだけだった。 「ねぇ、おじいちゃん」 「ん?」 「私も、大人になるの?」  日向に座る私の上に、、蝉の声が降り注ぐ。祖父の顔は、軒先の影になってよく見えない。少しだけ、考えているようではあった。 「遙は、」やがて少しだけ言葉を紡ぐ。そうして、再び黙り込む。  祖父は両手を後ろについて、しばらくの間空を見ていた。 「うん、そうだな」  そのうち祖父が独白のように私に言った。 「遙なら、自然と大人になるよ」  私は少し考えて、そして祖父に聞き返す。 「ハタチになればってこと?」 「違うよ」祖父は優しげな声でそう言った。 「大人っていうのは、自分で自分の人生を歩く、そんな人のことを言うんだよ。遙ならきっと、大丈夫」  なんだか妙に、釈然としない。  私は、ふてくされたように、垣根の向こうに目をやった。遠く、緑の山がそびえ立つ。山をふちどるようにして、近所の木々が、生い茂る。幼少期から、毎日見てきたその景色。  けれどもきっと、毎年少しづつ変わっているのだろう。私はそれに気が付かないだけなのだ。私は、それに比べてどうなのだろう。自分では、変わっているとは思えない。けれども、昨日の優菜は言った。  そして祖父は、自然と大人になるという。頭の奥が微かに痛む。横目で、祖父の顔を見る。けれどもやはり、影になってよく見えない。多分、黙り込む私を見かねているのだと思う。 「んー、」  祖父は、私への言葉を探す。 「水泳」  そしてぽつりと、そういった。 「え?」  不意を突かれて、聞き返す。 「水泳、楽しかったかって」  そう言いながら、わしゃわしゃと、私の頭を撫で回す。そして、照れくさそうに、笑って言った。 「飲んでもねえのに、こんな事言うのこっぱずかしいな」  そうして、暗闇に消えてゆく。私は日向に置き去りにされたまま。日向になれた私の目では、家の中すらよく見えない。大きなため息が喉から漏れる。遠く、霞んだ緑の山を見る。そしてゆっくりと首を振る。
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