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パウンドケーキ・テロリスト
「さあ、私たちのどっちを選ぶの?」
「約束通り、この味で白黒つけてよね!」
俺は二切れのパウンドケーキを目の前にダラダラと脂汗を垂らしていた。
偶然、同時期に仲良くなった女性が二人。
それも「友達以上恋人未満」の距離だと思っていたのに、二人ともすでに俺と付き合っているつもりだったらしい。
曖昧な態度がいけなかったのかもしれないが、期せずして二股をかけたことにされ、結果として修羅場を迎えてしまったのだ。
そして修羅場の言い逃れとして、俺は「美味しいパウンドケーキを作った方が真のカノジョだ!」と叫んだのだ。
女子はみな、お菓子作りが得意だとは限らないだろう。甘党の俺はお菓子作りの腕前で順位付けをしてこの難局を乗り切ろうと決意したのだ。
ところが予想外に、二人とも立派なものをこしらえてきてしまったのだ。
お洒落な佐藤さんのパウンドケーキは、プレーンとチョコのマーブル。ほのかに漂うラム酒の香りには洋風の色気がある。
奥ゆかしい塩見さんのパウンドケーキは、酒粕を織り込んだ和風テイストで、上品な和の香りを醸し出している。
先攻は佐藤さんのマーブルだ。俺はおそるおそる口に運ぶ。
ぱくっ。
おおっ、これは!
しっとりとした生地の中に味蕾を滑り込ませると甘美なスイーツの世界が展開される。
濃密なバターの香りが俺の嗅覚を瞬時に覆い尽くした。
少年時代を想起させる無垢な甘みと、自分の中の大人を覚醒させる芳醇な苦みが、まるで川のせせらぎのように口の中を流れ、手を取り合いながら新しい味の輪郭を描いてゆく。
咀嚼が止まらない。何故だ? そうか、俺を誘う味の領域がその先にあるからなのか。
その奥に映るのはアーモンド独特の香ばしさと味わいだ。
スライスされたアーモンドは、水面が陽射しを弾いて瞬くように、味を彩り、輝きを与え、同時に吸い込まれそうなほどの奥行きをもたらしてくれている。
至高の生地を心ゆくまで堪能してからあたたかい紅茶を一口含む。
気高く主張をしていた生地は柔和な笑顔を見せて溶け、後味という名残惜しさを漂わせつつ喉の奥へと流れていった。
――なんてことだ、佐藤さんはこんなにも鮮やかな味をパウンドケーキで表現することができるのか。
佐藤さんは驚く俺を見て満足そうな笑みを浮かべた。
この味の魅力に俺は心の中で跪いた。勝負あったのではないだろうか。
だが、余韻が冷めないうちに塩見さんが声をあげる。
「次はわたしの番ね」
後攻、塩見さんの和風パウンドケーキ。俺はその一切れを口に運ぶ。
ぱくっ。
はうっ!
醪の生きた香りがふわりと広がる。悪戯っぽいのに粛然とした香りは鼻腔をくすぐり、いやおうなしに酒蔵の空間を感じさせる。
和の醸し出す芳醇な刺激は俺の鼻から耳、そして喉元へと伝わってゆく。和スイーツの世界が打ち寄せる波となって俺をさらいにくる。
解せない、何故酒粕という和の素材が焼き菓子に迎えいれられているのだろうか。
まるで迷い込んだ異国の地で恋に落ちたかのようだ。異なる食文化は確かに口の中で手を取り合い、ハーモニーを奏でている。
いや、むしろこれがかくあるべき姿とだといわんばかりに味の理にかなっている。
けっして生地の細やかな感触を邪魔することなく、それでいてもろみの一粒一粒は確かに存在していた。
もろみは甘く魅惑的に修飾された小麦の生地の中から、密かに俺の味蕾を従わせようとたくらんでいる。
咀嚼する度にじりじりと恍惚な束縛の虜にされていくようだ。魔性のテイストの前に恐怖心すら吹き飛んでしまう。
――信じられない。塩見さんもまた、素晴らしい作り手だ。正直、まさかここまでだとは思わなかった。
塩見さんは真剣な眼差しで俺の反応をうかがう。
「「さあ、どっちを選ぶの?」」
冷や汗が濁流のごとく吹き出した。あまりにも高いレベルのパウンドケーキの前に、俺は甲乙をつけることができないでいたのだ。
二人は睨み合い、互いに自分のパウンドケーキの方が上だと信じてやまないようだった。
しかし答えを見いだせずにいる俺に業を煮やした二人は声をあげる。
「あなたが決められないなら、私が確かめてみるわ」
「悪いけど、わたしもそうさせてもらう」
そう言って佐藤さんと塩見さんは互いのパウンドケーキを勝手にちぎり取り口に放り込んだ。
二人とも互いの味を確かめる。部屋は沈黙に支配された。
しばらくの間があってから、二人はぼそっとこぼした。
「……塩見さん、ちょっとよろしいかしら」
「……なにかしら、佐藤さん」
「……語りましょう」
「……ええ、そうしましょう」
たった一口で、互いの間にあった刺々しい空気はどこへやら。
気づくと二人は旧知の友人であったかのように手を取り合っていた。
それから二人は俺の目の前で笑顔を交えて熱く語り始めた。もちろん、お菓子作りについてだ。
数分後、俺の存在はすでになきものとなっていた。
そーっと後ずさりしても、熱のこもった会話を繰り広げる二人は俺の脱退に気づく様子はなかった。
こうして俺の部屋には平和が訪れたのだった。
それにしても、スイーツの世界は奥深い。
たった一口で、互いが気の合う相手だと理解させてしまうのだから。
感銘を受けながら、二人の未来に冷めかけた紅茶の残りで祝杯をあげる俺であった。
【了】
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