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 三代目御目出亭海老丸(さんだいめおめでていえびまる)は、ベッドであおむけになりながら、おぼろげな記憶を辿っていた。  御目出亭(おめでてい)は江戸時代から続く噺家の名屋号で、古典から新作までなんでもこなす。中でも初代御目出亭金目(しょだいおめでていきんめ)は、笑いの神と呼ばれたほどの名人で、その名を襲名することは落語会最高の名誉とまで言われていた。 「なんでぇ、あの世もこっちとたいして変わらねぇな」  絞り出した声が呼吸器のマスクを曇らせる。暖房が効いていて顔が乾燥しているのが分かった。まだ生きているらしい。  看護婦がやって来て様子をうかがう。 「山本さん、意識が戻りました」  噺家の名でなく本名で言われるのは、恥ずかしくもあり、屈辱的でもあった。 「大丈夫?」 「お父さん!」  呼ばれた妻の百合(ゆり)と娘の海美(うみ)が心配そうに覗き込む。 「高座が終わって倒れたって、鯛造(たいぞう)さんに聞いたから」  鯛造というのは海老丸の兄弟子で、海老丸と齢が同じなせいか気が合い、家族ぐるみの付き合いがあった。 「おお、そうか、そうだったっけな。すまんすまん。で、今なん時でい?」  職業病の一種で、時間を聞くのにも落語の一節が出てしまう。 「12月の3日。丸1日経ったわ。予定の高座はいったんキャンセルしといたからね」 「なに! 何てこった。あーくそったれめ!」 「こんな時に何言ってるのよ。当たり前でしょう」 「そうだよ、お父さん、お父さんが死んじゃったら……」  海美はそれまで我慢していた感情の糸がぷつりと切れ、感極まって泣き出してしまった。さすがの海老丸も愛娘の涙には敵わない。鉛と化した腕を上腕の筋肉だけでなんとか動かし、頭を撫でてやった。  状況を知りたい海老丸のためにうってつけの人物が現れた。主治医の小宮山(こみやま)だ。40歳、専門は外科、この病院では中堅どころだが腕はある。  家族の心配そうな表情に動じることなく、脈や瞳孔の状態を冷静に確認した。 「峠は越えたようですね。詳しいことはもう一度検査してみないと分かりませんが、心配ないでしょう。退院はもう2,3日様子を見てからになりますね」  主治医の顔色と声色に心から安心する百合と海美。お辞儀の角度は床に頭がつきそうなくらいだ。 「そらみろ。問題ないんだよ。俺は先生と大事な話がある。お前たちはジュースでも買って待ってろ」  手をぶらぶらさせて追い払う海老丸に、心配して損したという顔で抵抗する百合。 「ほら、行った行った」 ドアを閉じる際にも深いお辞儀を加えた百合。手首で目元をぬぐったのを、海老丸は見逃さなかった。 「さて、先生よ」 「はい、何でしょうか。講演ははやはりしばらく様子を見たほうが……」 「そうじゃねぇ。俺は昔から人を見る目だけは確かでよ。寄席が始まる前にどんな客がいるか見て、その日にふさわしい噺をすることができる。こりゃ師匠も認めてくれた俺の特技よ」 「ええ。それは素晴らしいですねぇ」 「あんた誰だ? 医者じゃねぇ、いや、ヒトじゃあねぇな」  小宮山へ向けた海老丸の眼力は、歌舞伎の見栄に勝るとも劣らない。 小さく息をついた小宮山は改まって、 「山本さん、私――いや、俺は死神でね」 「ほう、いいねえ。俺も好きな話さ。で? 続けなよ」 「あんた、もう長くないんだ。俺の正体に気づけたんならもう分かってるだろう? 突然の動悸に息切れ、原因不明のめまい、頭痛。もうしまいよ」  突然目を見開き、氷のような眼差しを突きつける。 「あとどのくらいなんでぇ」 「そうだな……」  死神は右手の平を開く。すると今にも消えかかろうとしているごく短いろうそくが現れた。 「もって、あとひと月……。年を越せるかどうかは五分五分だ」  海老丸は鼻で笑い、 「なんだよ、襲名披露に間に合わねぇかもしれねぇってのか。冗談じゃねぇ……!」  海老丸は上体を起こし、ずいと死神をにらむと、 「おめぇが死神かどうかはさておき、俺の命は俺が決める。俺には笑いの神がついてるんだ。おめえなんかに取らせてたまるかよ!」  死神も負けてない。 「なんとでも言え。それがお前の寿命だ。残りの余生どう過ごすかゆっくり考えろ。ひとまず家族には黙っといてやるよ」  死神は立ち上がると病室の入口へと向き直った。 「おい、その寿命ってのは、どうにもなんねぇのかよ」  死神は頭だけ海老丸に傾けると、 「それがお前の運命だ」  そう言い残して出ていった。
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