灰と赤と白と黒と

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ー私の殺した人は、私にとって劇薬でした。私はあの人に生かされ、同時に殺されていました。いや、生かしも殺しもしないのか。実は私にもわからないんです。私にとってあの人が何だったのか。初めてあの人の顔を見た日のことも覚えてないのです。気づいたら一緒にいた。名前も知らない。目も合わせてくれない。でも私にとってはそれが普通でした。小さな部屋の隅だけで生きてきた私にとって、あの人だけが私の知る人間でした。それに、その部屋以外がどうなっているのかさえ知らないから。他の人なんて存在しなかった。私の中では人間は私とあの人の二人だけだった。それに、あの人が時々開けていたモノの向こう側は虚無だと思ってました。あの人がそう教えた訳ではありません。そうではなくて、私にはそうにしか思えなかったのです。あの人は毎日毎日顔に色を付けて向こう側に行くんです。行くのは良いのですが、行くときは顔につけた色が異様に目立つくらいに顔が色あせているんです。確かに、あの部屋には色々なものがありました。でも、すべて昔のカメラで撮ったような色をしてありました。その色と同じ色をしていたから、嫌に目につく塗料はあの人の顔の上で浮いてました。でも本人は気づいていないようでした。気づいていたら、治すはず、ですよね?まあ、そうやってあの人は向こう側へ歩いていきます。毎日。そしてあの人が帰ってきます。え、あぁ、その間ですか?特に何もしていません。何かを見つめたり、見つめなかったりしていました。多分誰かがその時の私を見たら死んでるみたいだと形容するかもしれませんね。死んではないですけど。でも、本当にすることがないので、そうやって仮死のままいると、あの人が帰ってくるのです。向こう側からこの小さな部屋に。その時にはあの人の顔はより一層色がなくなっていました。何かぼそぼそ口にしながら部屋に来ます。あの人の色あせた顔は嫌いです。なんだか怖いんです。折角顔につけた色もすべてなくなっていて、その小さな部屋をより色褪せさせる何かを連れてくるんです。それに、なんだか、嫌な気分になる臭いもしました。煙のような、生臭いような、吐きそうになる臭いです。なんであの匂いにまみれて吐かずにいられるのか私にはあの人が不思議でした。あの人にとってあの人自身はそこまで大切じゃなかったのでしょうかね。其の儘倒れて床で気を失います。毎日。それこそ死んでるようでした。でもそれで死ぬことはなく、毎日目を覚まします。また、色を塗る。臭くなって帰ってくる。倒れる。目を覚ます。ずっとそのまま。毎日ずっとそのままでした。私もずっとそのままでよかったんです。そのままで。でもあの時ちょっとした出来心であの人に話しかけてみました。私があの時何て言ったかは覚えていません。でもあの人の逆鱗に触れたのは確かでした。だって、私のことを殴ったんですから。その時、そういえば昔もこんなことあったなあと思いだしました。だから今まで話しかけてなかったのかと、独りで納得しました。まあ、実際痛感したので。その日から私の世界は半分になりました。半分、いやもう少し大きいか。片目がつぶれただけですから。それからより一層静かにしていつもの『毎日』が取り戻せるよう努力しました。でも、それからあの人の向こう側から帰ってきた後の行動が一つ増えました。その日から、あの小さい部屋は、あの人の鮮赤に彩られ始めました。少しずつ色鮮やかになるのが私は嬉しくもあり、同時に気味が悪いとも感じていました。それからです。私が『毎日』に対していつまで続くのかと終わりを期待し始めたのは。多分、あの人も同じことを考えていたのでしょう。時々ちらちらと、こちらを気にするようになりました。それが、私が小さい部屋に存在し始めたときです。分かりやすく目が合う回数が増えていきました。そして 、いつ頃かに私はあの人の言葉を聞きました。私に向けられた初めての暴力以外の何か。私は心底嬉しかった。その言葉がどんなものであっても、私は聞き逃さないように耳を全力で使いました。嬉しかった。その言葉は『殺してほしい』でした。聞き逃しません。それに私はすぐに反応しました。あの人が私を必要としている現実がすぐ目の前に在る。それだけでもうれしい。だから、私はあの人を殺しました。死んだらどうなるかも知らないですし、私はあの人の言う通り包丁をもってあの人の左胸につきたてました。部屋を彩る鮮赤が急に強くなり、眩しい。その垢が手についたとき、生暖かいあの人の温度を感じました。手が赤一色になって滑りやすくなった包丁は刺し抜きが出来なくなってしまいました。私は、あの人の初めての温かみに浸ることで精一杯でした。あの時の私は、幸せでした。あの人の上で横になって倒れ込めたから。あの人の中に居れたから。あの人が私にとって何だったのかは知りませんが、私はあの人が欲しかったんだと思います。何よりも。それが、おそらく二か月くらい前の話です。それから何日かが過ぎて私はお腹が痛くなってきました。今まで何も口にしていなかったからと思います。私は何か食べるものを必要としました。でも誰も何も私に与えてはくれません。私はあの人を食べることにしました。でもあの人が消えてしまうのは苦しい。だからゆっくり少しずつにしました。何日かに一口だけ。それだけ。でもその一口で腹痛は収まるんです。私が必要としているのはあの人なんです。私は本当にあの人が欲しいのです。腹痛が酷くなる前にあの人を一口食べれば。私は幸せでした。ですがある日、急にあの人が出入りしていた鉄の塊が大きな音を立てて開きました。私はそのとき、自分自身とあの人以外に人間が本当に存在することを知りました。この世界は二人だけのものではなかった。少しの失望に苛まれました。そして、私は急に現れた人に連れていかれました。あの人には私が必要で私にはあの人が必要なのに。あの人は一心同体なのに。なのに、離れ離れにされて、今ここにいます。私はああの人が誰かは知りません。でも私にとってあの人は必要なものなんです。かえしてください。あの人とあの世界に。
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