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趣味と偏見
古本収集、まるで老人のような趣味だと思われる方もいるだろう。しかし、昔から文学を愛し、本を読むことに歓びを見出していた谷口にとって、古本収集は生きがいであった。彼の昔からの夢が、自分の図書館を持つことであった。芥川龍之介、夏目漱石、カフカ、セルバンテス、ユーゴー、ヘミングウェイ、ディケンズ、ドストエフスキーなど世界各国の文豪たちの著作を本棚に並べ、熱いコーヒーを片手に持ちながら、一日中書物を読み耽ることに強い憧れとロマンスを抱いていた。
令和の時代にも関わらず、彼の夢は大正時代の文学少年とそれほど変わらなかった。なぜ彼がこのような高踏な趣味を持つようになったのか?
一つの理由として考えられるのは、彼の知的コンプレックスと偏執的な物欲が入り混じり生まれたのだろうと推測することができる。他者からどう見られるかに興味のなかった彼は、身なりについてそれほど興味を持っていなかった。社会的なモラルとして服は着ていたものの、それは必要に迫られて着ているにすぎず、服自体に何の執着も抱いていなかった。しかし、知的かどうかについては何よりもこだわりを持っていた。ある意味でそれは、内面のファッションと言えるだろう。内面を着飾り、他者に表明することができる方法があるとすれば、それは他者からインテリだと認められることだろう。
彼は人から賢いと認められたがっていた。そして、それこそが彼にとって大事であった。当たり前な話だが、学歴や知識豊富さ、文学を嗜んでいることが賢さの証明ではない。いやむしろ、そうした偏った価値観によって、己の自尊心を支えることは愚かなことと言える。賢さは生きる強さのことであり、生き抜く力のことである。明日を切り拓き、自身の目の前に立ち塞がる壁を打ち破る力のことである。
しかし、谷口にはそれが分かっていなかった。彼は見せかけだけを煌びやかに着飾る中身のない若者達と同様に、インテリという内面的な見せかけを煌びやかに着飾る中身のない男だったのだ。だがしかし、彼がこうした偏った価値観に固執するようになったのは、ある意味で仕方がないことと言える。彼は生来、社交的な能力に乏しい人間だった。そのため、幼少期から今に至るまで親しい友が出来たことがなく、心を通わせ、自身の不安や悩み、葛藤を打ち明けることのできる友がいなかった。また、そうした奥手な性格ゆえに異性に対しても毎度気後れしてしまい、恋していた女性に、ただ一度も想いを伝えることすら出来ずにいたのだ。
そうして、始めは内向的なだけな性格も、歳月を経て、偏執的な性格へと変わっていった。往々にして、偏った性格というものは、何らかの欠乏によって生まれるものだ。そして、この偏執的な性格の持ち主は一見タフな人間に見えても、内実はとても繊細で、気弱なのである。谷口の古本収集も、彼のこの偏執的な性格と彼が抱いているコンプレックスによって生まれた趣味ではあるが、彼はその行為自体に純粋な歓びを見出していたことは確かである。自分が何かを欲しいと感じる衝動は、彼自身を元気にさせた。そして、欲しいと思う物を実際に手にした時の歓びは、生きているという実感でもあった。そうしてお金は無いものの、わずかな収入をどうにかやり繰りしながら、本を収集していった。始めはごく僅かな量しかなかった本棚も見る見るうちに、本棚に収まらなくなり、自身の勉強机や、部屋の空いているスペースなどに積んでいかなくては置き場所がない状態になっていった。そうして、古本収集を熱心に行うがあまり、肝心の読書に関してはおざなりになってしまうことがしばしばあった。だがしかし、これだけの書物を掻き集めたにも関わらず、彼の欲望は満たされることがなかった。なぜなら、彼が本当に欲していたものがまだ手に入っていなかったのだ。それ故に、彼の心には穴が開いていた。いや、もっと正確に言うのであれば、彼の心は大きな凹みを抱えていた。その凹みを何とか直そうと躍起になっているのだ。
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