雪纏う花嫁

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 明日に婚礼を控えた冬の日、座敷に飾られていた白無垢が盗まれた。  前日までに積もった雪を、真昼のまばゆいほどの陽光が照らしていた。その白い雪の庭を駆けていくものがある。日の白と雪の白とに照らされていっそう白く輝く衣装を羽織るようにして逃げるのは一匹の猫。 「あ――」  と一声発して追いかけたのはその婚礼衣装を着る予定の当の花嫁――八重である。 「待って」  重たいはずの着物を不思議なほど軽やかに翻して走る猫を追いかけ、八重は雪の庭に足を踏み出した。冷えた雪が素足を凍えさせるのも構わずに、そのまま走る猫を追った。  林はしんと静かだった。明日花嫁となるはずの八重を追う者は一人もいない。衣装が無くなったことにも娘が駆けだしたことにも家の誰も気付かなかった。 「ずいぶん、静かな逃亡でしたね」  言ったのは衣装を盗んだ猫である。姿は着物に隠されて見えない。だがその声は玲瓏と、どこか品のある響きを持っていた。 「逃げたのはあなただわ。私はそれを追いかけただけ」  走ったために上がった息を整え、八重は猫に手を伸べた。返して――とその声は静か、雪の積もった林に染み込むよう。 「逃げたなど」  言ってはらりと着物を白い地面に落とす。現れたのは茶トラの老猫だった。 「私は八重様を逃がしただけですのに」 「……ひなぎく」  呟いた名はかつてこの老猫に与えた名だ。少女の頃の遊び相手だったしなやかな若い雌猫は、いつしか八重の前に来ることがなくなっていた。久方ぶりに会う――と感激して伸ばした手は、けれどするりと躱された。 「そんな大層な名前で呼ぶものじゃありません。あたしはただの野良猫です」 「雛菊は、雛菊だわ。どうして」  ずっと会いに来てくれなかったの、花嫁衣装を盗んだの――といずれを問いたいのだろう。 「……綺麗な白無垢ですね」  雪の地面に落とした着物は銀の糸で細かな刺繍が施してある。木々の合間から差す光を反射してまばゆいほど。 「これをお召しになった八重様はさぞかし美しいのでしょう。誰もが綺麗だと誉めそやすのでしょう。旦那様になられる方も――」 「やめて」  遮った八重の声はかたい。雛菊は鋭く八重の視線をとらえた。 「結婚をして幸せになろうという方がする顔じゃありません。……今だけじゃなく、もうずっと、これを見る度にそんな顔をして」 「どうして知ってるの」  驚いて見返す。雛菊は返された視線を今度は外し、口を開いた。 「……知っているに決まってます。ずっと見ていたんですから。あなたが成長して幸せになる姿を見たいと、そう願いつづけてきたんです。……あ」  老猫はふいに声を上げ、八重の足元に駆けよった。 「八重様、こんな、裸足で」  冷たさに赤くなったつま先の辺りをおろおろと巡る。  触れられそうだわ――と思って八重が指先を伸ばすと、豊かな毛並を感じることができた。雛菊はうろたえる様子を見せた。 「……やめてください。それより早くお履き物を何とかしないと。しもやけになってしまいます」 「構わないわ」  逃げる花嫁衣裳を追った時にはもう、雪の冷たさなどは念頭に浮かんでも来なかった。着物に隠れたちいさなものが、ずっと会いたいと願ってきた存在ではないかと逸る気持ちを抑えられなかった。会えた今も、冷えて痛む足などよりも愛しさに鳴る胸のほうがずっと大事なことだ。 「久しぶりだわ、あなたに触れたの」 「恥ずかしいんです。あの頃とはもう違いますもの」  老いた己の毛並は艶も柔らかさも失ってますもの――と老猫はうつむき恥じ入る。 「なにも変わらないわ。ずっと綺麗よ。私の雛菊はずぅっと綺麗」  真実、そう思う。しなやかさや軽やかさは失われたかもしれないけれど、代わりにたやすくは備えがたい品格をその身に纏っている。 「会わない間に、あなたはおとなになっていたのね」 「おとなどころか、老いぼれですよ。……八重様がじっくりと時間をかけて成長なさっている間にね、あたしは目の前の識るべきことをどんどん吸収して、あなたの何倍もの速さでおとなになったんです」  寂しい、と八重が置いて行かれた切なさを口にすると、それよりもいっそう切ない瞳を雛菊はした。 「……ずっと、見たいと思っていたんです。八重様が花嫁になって幸せに笑う姿を」  ひとりぼっちでない姿を――とその瞳はあの日々に想いを馳せるよう。  八重は両親からも家の誰からも見向きもされない娘だった。ひとりぼっちで遊んでいた庭に紛れ込んできた猫を見つけた時、どんなに嬉しかっただろう。誰にも見つからない世界でふたり、寄り添うように過ごした記憶。雛菊は八重の孤独を誰より知っている。  よく、おままごとをした。きれいなおよめさんになりたいの、と言った八重に雛菊は、あたしも生涯寄り添うおひとがほしいです、と野良の寂しさを口にした。  ――それなら私たち、結婚をしましょう。  ――八重様とあたしで結婚ですか。そうしたら寂しくありませんか。ずっと一緒にいられますか。  もちろんよ、と幼い八重は頷いた。  ――あたしは八重様のお嫁さんになれるんですか。  それは心が晴れるようにとても素敵なことだ。  ――雛菊も私をお嫁さんにしてくれなくちゃだめよ。  はい、ぜったいに、と約束をした。  抱いているのが友愛であるのか恋であるのか、それは判然としない感情ではあったけれど、自分を見てくれる雛菊は八重にとって何にも代えがたい存在であったし、雛菊の方も同様であった。  けれど娘に見向きもしなかった両親は、ある日気紛れのようにその手を八重に伸ばして家の奥に大事に仕舞うようになった。どこぞのお大尽がいまだ幼い少女であるを八重を見染めたのだ。  雛菊は名を呼んでくれる者もなく、またひとりになった。  ……けれど、いい。  そう思うことにした。  ――八重様は花嫁になれるんだもの。  寂しくはきっとなくて、一人ぼっちでもなくなって、幸せになってくれるはずだ。……けれど、胸の内がひどく痛い。  花嫁になって笑う八重の姿を見たい。だがその一方で、焼けつくような感情がある。 「あ――、あたしの、花嫁になってくれるって約束してくれたじゃありませんか」  雛菊の声は震えていた。言ってしまってから、はっとしたように八重の顔を見上げた。 「ちがう、失言です――違うの。言うつもりなどなかったのに……」  衣装を盗んだのは最後に一目会いたいと願ったからだ。必ず自分を追うだろうと、思い上がりかもしれないけれどそう信じていた。はたして八重は自分を追ってここまで来てくれた。裸足のつま先を真っ赤に腫らしてまで。 「いえ、聞いたわ。今のちゃんと聞いたわ、雛菊」  嬉しい、と雛菊の気持ちを受け止めながら、それでも八重は「着物を返して」と言わないわけにはいかない。  気紛れに娘に手を伸ばした両親は、ただ娘を嫁にやるためだけに大事にしたに過ぎない。それでも恩義はあるから、この婚礼を台無しにするわけにはいかない。  雛菊は愕然とする思いで八重を見つめた。 「嫌です……」  ……庭の隅から垣間見える娘の姿を恋しく目で追った日々。綺麗に成長していく娘に見とれ、老いていく己の身をあきらめていた。 幸せになってくれるのなら誰の花嫁になっても構わない。そう思っていたのに、たまに見える娘の瞳はいつも沈んでいた。それが婚礼が近づくにつれていっそう昏い色となっていくのでたまらなかった。 「なるのなら幸せな花嫁じゃなきゃいけません。だから返せません。想いのない結婚で、あなたは幸せになってくれますか」 「……なれるわ」 「なれるとしても――ほんとうに幸せになったとしたら、それはそれであたしは悔しい。やっぱりそんなの、あたしは嫌です」  誰かの隣で笑うのか。自分の花嫁になってくれるはずだった少女が、知らないところで笑うのか。  雛菊は身を翻し、広げた花嫁衣装の前で威嚇の姿勢をとった。 「やっぱり、返せません」 「返して、雛菊」 「嫌です、あたしのです。あたしだけの花嫁衣装にするんです」  着物の中に潜り込む。 「あなたが隣にいてくれるはずだった、けれども隣に誰もいない、ひとりきりの結婚式をあげるんです」  ――雪景色の白の中で。 「……ね、返して」  伸ばされた手は淡白く雪のよう、声は優しく耳に響いて、雛菊はふいに泣きそうな思いがした。八重は近づきしゃがみこむと、白無垢に潜り込んだ雛菊に語りかけた。 「幸せになれるのはね、心にほんとうに想う相手がいるからよ。一生に一度の誰にも見せたりしない宝物の想いが、ここにあるの」  言って胸を示す。そこに――? と問いかけ耳を寄せかけた猫を、八重は着物ごと抱き寄せた。 「雛菊。ないしょの結婚式をしましょう。あなたは私のお嫁さんになるのよ」 「あたしが――?」 「そう。それでね、雛菊は私を何にしてくれるのかしら?」  雛菊が見上げた瞳は柔らかく愛しさに満ちている。 「……そんなの、決まってます。――八重様は、あたしだけの、とびきり綺麗な花嫁さんだわ」  泣きそうになりながら、雛菊はそう言い切った。  雪を纏った衣装をふたりで一緒にかぶって誓い合う。くすくすと、どちらからともなく笑い声が零れた。  八重が明日婚礼をあげるのは変わらないけれど、その瞳は強く、そしていたずらっぽい輝きを秘めていた。 「見ていなさい、雛菊。あの男はね、自分の妻になる女がとうに婚礼を済ませているなんて気付きもしないで、のん気に自分のものだなんて思い込むのよ」  私は雛菊のお嫁さんなのにね、とくすくす笑う。 「傍からそれを眺めて、あたしもおかしくなっちゃいそうです。隣にいるのはあたしの花嫁だよ、って言ってしまいそう」  ふたりきりの婚礼は夕暮れとなった雪景色の中で静かに行われた。  ――いずれ家の者も気付いてここまで辿り着くだろう。冷えきった八重の姿に肝を冷やすかもしれない。着物は濡れてずっしりと重たくなっている。代わりの衣装を慌てて探すがいいと思う。  ――この衣装は八重と雛菊だけのものだ。  ふたりの花嫁の、雪を纏い白く輝く、無二の婚礼衣装だ。
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