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そうか。青年は、あの時のことをようやく思い出した。
あの日、婚約指輪を買った俺は結婚を申し込むため、彼女と待ち合わせをした。あの女の自動車が、そこへ突っ込んできたので、彼女を守ろうと思わず飛び出して巻き込まれた……。
「死んだのか、俺も」
「そうです。ここで地縛霊になった彼氏を助けて2人で成仏したい。これが彼女さんの頼みでした」
「お礼をしなくちゃいけないわね」彼女は微笑んだ。
「せやから、そんなもん要らんて、何度も言うてたやないですか。早よ、成仏して、僕を解放してください。あの世は鴨川の向こうですから、とにかく早よ」
「でも、それじゃ気が済まないよ」すべてを思い出した青年は顔を上げた。「そうだ。婚約指輪が、まだ鴨川の中に沈んでるかもしれない。俺たち2人には、もう必要ないから貰ってくれ。売れば小遣いくらいにはなるだろ」
「そうね」彼女もうなずいた。「高校生はバイト代も高くないでしょうから」
「あぁ、もうわかりましたから、さっさと……。どないしたんですか」
「鴨川の渡し舟を待ってるんだが、来ないねぇ」
「そう言えば渡し賃も持ってないわ。確か六文だったかしら。現代のレートで何円くらいかしら」
「納得したら納得したで面倒くさいなぁ。いいですか。渡し賃の六文ちゅうのは、この世に置いてきた未練が具象化されたもんや。婚約指輪さえ要らんて言うんやから、渡し舟に乗せてもらう必要すらあらへん。2人とも歩いて渡れますよ。さぁ、早よ早よ。ほな、さいなら。向こうで、お幸せにね」
青年と、その彼女は急き立てられるように鴨川の水面を歩いて、向こうへと渡って行った。
「はぁ~、やっと解放かいな。疲れたぁ。アイスでも食おか……。えっ、えぇ~。さっ、財布……財布があらへん。うわっ。きっと落としてしもたんや……。そっ、そうや」
日が暮れるまで、鴨川の河原沿いに等間隔で腰かけたカップルからの冷たい視線にさらされながら、川の中を必死にさらっている1人の高校生の姿があった。
*
高村弥
京都で、犬も歩けば棒に当たり、弥が歩けば怪異に当たると言われた大学生。
大阪日本橋の五階百貨店に居を構える万屋『怪物たちの雑用係』、通称“MUs”の特異な面々と出会う前の話である。
了
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