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- day 6
“連れて行きたいことがある”、とヒカルが言った。
休みの日に甘えゆっくり起床し、朝昼兼用のご飯を済ませてアオコはヒカルと出かけた。
どこへ行くとも伝えられず、アオコはただヒカルの後ろを付いていく。並んで歩くわけでもなく、微妙に離される距離がもどかしかった。手を伸ばせば、ポケットに突っ込んだヒカルの手を取れそうだったが、彼女のいる彼に、あざとく可愛こぶる若さは持ち合わせていない。
それに、昨日のヒカルと良輔の告白のせいで、アオコは気分が落ち込んでいた。どうして二人とも、もう取り返せなくなってからああだこうだと不満を言ってくるのか、アオコは理解できなかった。
じとっと目の前を歩く男を睨みつける。そんなアオコを他所に、ヒカルの機嫌は良く、ぴいぴいと口笛を鳴らしながら歩いている。
まもなく、ヒカルの足が止まった。
「着いたよ」
「ここってもしかして……」
「そう。ちっちゃいけど劇場だよ」
小さく古めかしい建物だが、公演のポスターがあちらこちらに貼っていた。懐かしい雰囲気に、少しだけ胸を高鳴らせる。ヒカルと付き合っていた頃、こんな小規模の劇場でよく公演を見ていた。社会人になってからは忙しくて大好きな演劇を見る暇もなかった。
中に入ると、外観の割に綺麗で活気があった。客もそこそこいるようだ。受付にいた男が、ヒカルを見て声をかけてくる。
「香月ぃ、お前も受付手伝えよー」
「俺今日は客だからさ」
「しかも女連れかよ……ってあれ、岡島?」
名前を呼ばれ、アオコはその人物をよく見る。それは、大学時代にヒカルと一緒に演劇サークルに所属していた男だった。ヒカルを通して知り合い、公演の後によく飲みにいったりした。
「えっ、白井? うっそ、久しぶり。演劇続けてたんだ」
「久しぶりー。そうそう、香月から聞いてなかった?」
そう言われて顔を曇らせる。ヒカルと別れた後に何度も白井と連絡を取ってヒカルの行方を聞いたのに、彼は何一つ教えてくれなかった。
アオコはすぐに笑顔を取り繕って答える。
「うん。ヒカルとも久しぶりに会ったんだ。ね?」
「……ああそっか……。」
何も言わないヒカルの様子にようやく察したのか、白井は小さく呟いた。気まずい空気になるのを妨げるように、パンフレットを差し出してきた。
「まあとにかく俺頑張ってるから、見てってよ」
アオコは頷いて受け取った。開演の時間までもう少しあったが、ヒカルがもう劇場の方へ向かっていたので、何も言わずについていく。
小さな劇場はおおかた席が埋まっていた。二つ並びで空いている席が見当たらなかったので、仕方なく一番後ろの席に座った。
演劇は、今日を暮らしていくのも困窮するほどの貧乏な兄妹が、ある人助けをしたことでその生活が一変する成り上がりの話。突然裕福になり、優しかった兄は人が変わったように横暴になる。そんな彼が起こすトラブルに巻き込まれ命を落としてしまう妹。兄は金よりも大切なことがあることにようやく気が付いて、妹の亡骸を抱きしめて泣くところで幕が下りる。
失って大切なものに気がつくなんて、とアオコは自嘲した。今の荒れた心に沁み渡る。それは、兄を演じていた白井の、とことん役になりきる姿勢と、思わず感情移入してしまう繊細な演技のせいもある。一番後ろの席でも伝わってくる、彼の演劇に対する情熱。アオコも、演劇が好きだったあの頃の気持ちが溢れ出して、ラストシーンは昂ぶって涙を流してしまった。
「ごめんね」
カーテンコールが終わるとすぐにヒカルが口を開いた。彼に気がつかれないように、アオコは頬の涙を拭う。
「何に謝ってるのよ」
「……うーん……」
「何も言わずに連れてきたこと? 昨日のこと?」
ヒカルは肘置きに置いたアオコの手に、そっと自分の手を重ねる。逃げようとする暇もなく、ぎゅうと手を握られた。客はぞろぞろと帰っていく。流れに取り残された二人は、まだ立ち上がらない。
「俺も演劇続けてるんだ」
ゆっくりと顔を上げたヒカルは、哀しそうに笑う。
「えっ?」
「アオと別れてすぐ、仕事辞めて、白井とこの劇団に所属してる。やっと軌道に乗ってきて、今はアルバイトしながらだけど食っていけるようになったんだ。俺は別の公演終わったばっかりでこれには出ないけど、アオに今の俺たちの演劇を見て欲しかったんだ」
アオコは目を丸くした。ヒカルと別れて五年経ったが、彼の話が耳に入ってくることは一度もなかった。どこで何をしているのか、そもそも生きているかも疑うくらいだった。白井とともに演劇をしていたことなど、全く知らなかった。
驚きのあまり言葉を失ったアオコの手を、ヒカルは強く握る。手を握られていなかったら、ヒカルの頰を叩いて帰っていたかもしれない。
「黙ってて、ごめん」
「……正直すごい吃驚してる。仕事辞めてって、どうして? 劇団に入るって言ってたのに、急に辞めて就職するって言い出したのはヒカルでしょ?」
アオコはヒカルの夢を応援していた。彼のことが好きだからそう思っていたのかもしれないが、ヒカルには舞台俳優としての才能があると思っていた。それなのに急に辞めて就職活動を始めたヒカルにがっかりしたことを昨日のように思い出せる。
「アオに相応しい人になりたくて、就職したんだ」
「……な、何それ……私のせいで夢を諦めたの……?」
思わず握られた手に力を込めた。鋭くなったアオコの目を、ヒカルは怯むことなくしっかりと見据える。
「違う。アオが俺の夢だったんだ」
「……私が……?」
「ちゃんと就職して、金稼いで、アオの隣にいられるようになりたかったんだ」
「……ヒカル……」
「……けど、アオはそんなの望んでなかったんだよね?」
哀しい目をする彼の顔から、アオコは視線を逸らした。
図星だった。スポットライトに照らされて汗が光り、舞台の上できらきらした笑顔で役になりきるヒカルが大好きだった。彼の舞台俳優になる夢を本気で応援していた。そんな彼を支えてあげたくて、辛い就活にも耐えて、何とか条件の良い会社に就職したんだ。
「好きなことも捨てて、自分に嘘ついて、大好きなアオも信じられなくなって、もう息をするのも辛かった。全部嫌になって、空っぽの自分が怖くなって、アオが何を思っているかも知ろうとしないで……アオから逃げたんだ」
握っていた手を離して、俯いたアオコの頰にそっと触れる。アオコはぎゅっと目を瞑った。
「アオ……」
視界を閉ざしたアオコの、研ぎ澄まされた聴覚に訴える、少し低く掠れたヒカルの声。鼓動する心臓を掴まれるような気がして、胸が苦しい。ゆっくりと目を開けると、顔を顰めて泣きそうなヒカルが見えた。
アオコに触れている手が頬を撫でたかと思うと、ヒカルは顔を寄せて、ちゅっと可愛らしい音を立ててキスをする。頬を撫でていた手で、自分の唇が触れたところをなぞると、もう一度キスをする。ヒカルはアオコの反応を確かめながら、だんだんと深い口付けを交わしていく。アオコは頬を撫でるヒカルの手に自分の手を重ね、抵抗することなくキスを受け入れる。
やっと顔を離したヒカルは、アオコの髪を撫でながら言った。
「今日は抵抗しないんだ」
「……嫌がったら……ヒカルが泣きそうだったから」
「やっぱり優しいね、アオは」
ヒカルは目をくしゃりと細めて笑った。
よし、と気合いを入れて立ち上がり、アオコに向かって手を差し伸べた。
「白井にお疲れって言いに行こ」
アオコは少し躊躇してその手を取った。
手を引かれて劇場を後にすると、出てすぐのところで白井が立っていた。気まずそうに口を噤んだまま俯いている。
「白井、お疲れ」
「……あ、ああ……岡島も見に来てくれてありがとな」
歯切れの悪い白井に、アオコは恥ずかしくなって思わずヒカルの繋がれていた手を払った。
「そうだ香月。紗綾ちゃんが来てて……香月が来てるって知って楽屋で待ってるんだけど…どうする?」
そう言いながら白井はアオコを一瞥する。アオコは首を傾げたが、すぐに白井はヒカルの方へ顔を戻した。
「ああ、俺は帰ったとでも伝えて……」
「──光っ!」
廊下に高い声が響き渡る。ヒカルの名を呼ぶ、見た目の割に気の強そうな目の女。グレージュに染められた前下がりのボブを乱しながら、ヒカルに向かって走ってくる。
どん、とヒカルに飛びつくように抱きついて、縋り付いて上目遣いで彼の顔を見上げた。
「えへへっ、来ちゃった」
「……サーヤ」
可愛らしく笑顔で言う紗綾とは裏腹に、ヒカルは困惑している。紗綾はヒカルの様子など気づく様子もなく、彼の身体に抱きついたまま、じっとアオコを睨みつけるように見た。
「だれ?」
「年上に敬語使いなよ、紗綾ちゃん。俺たちの大学時代の友達だ」
「ふうん」
彼女はにこっと笑顔を作るが、目だけは笑っていない。すぐにヒカルの方を向いて、お腹すいたから何か食べに行こ、と甘えた声で言った。まるでこれは自分のものだと主張するように、ぎゅうとヒカルを抱きしめて、アオコに見せつけた。二十二だと聞いていたが、年の割に子供っぽいとアオコは思った。こんなのがヒカルの彼女なんて、と心の中で舌打ちをする。
「ごめん、サーヤ。用事があるから今日は帰ってもらえる?」
「……やだ。今日は光とごはんの気分」
強気に追い払えないヒカルに、ふつふつと怒りを募らせる。なんだかんだ彼も男なんだなと、何を期待していたか分からないが勝手に失望してしまった。なぜイチャついているところを見せられているのだろうか、アオコはうんざりしてその場を立ち去ろうとする。アオ待って、と呼び止めるヒカルの声を無視して、出口へ向かった。
「待って。家まで送ってもいい?」
追いかけて来たのはヒカルではなく白井だった。
「ははっ、あからさまに残念そうな顔すんなって。香月じゃなくて悪かったな」
「……そんな顔してない」
「まあまあ。ずっと岡島と話したかったんだ。いいだろ?」
「うん、いいよ」
白井はにこっと笑った。懐かしい笑顔を見て、アオコも目尻を下げた。二十二歳の女に嫉妬する自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
二人は並んで歩く。こうして白井と二人で話すことはあまりなかったから、新鮮だ。
「さっきの子、ヒカルの彼女だよね?」
「ああ、紗綾ちゃん。俺らの大学の、演劇サークルの後輩なんだ」
「え? でも六つも下って聞いたけど」
「そうそう。俺と香月はさ、演技指導でOBとしてたまに大学に行くんだよ。それで紗綾ちゃんと知り合った」
ふーん、と棘のある声を上げた。白井はアオコを見て苦笑する。
「わり、さっき見るつもりじゃなかったんだけど……」
「……やっぱ見てたんだ」
「いやあれはお前らが悪いだろ。人が一生懸命演技してた後の劇場で乳繰り合ってんじゃねーよ」
「ヒカルがしてきたの。私は何もしてない」
アオコは手をひらひらとさせた。私は何もしていない、自分にそう言い聞かせるようにもう一度言う。
ふと、笑うのをやめた白井は、顔に影を落とす。
「ずっと岡島に謝りたかったんだ」
「え?」
「香月のこと何も言わなかっただろ。あいつに口止めされてて、“俺じゃアオを幸せにしてやれない”って、あの頃の香月はそればっかりだった」
「……そんなの、言ってくれたら二人で考えたのに……」
「そうだよな。俺も今はそう思う。きっと香月も、今はそう思ってるぜ」
今は、と強調して言った。
「……今じゃ遅い……」
ぽつりとアオコは呟いて、それを後悔するように顔を伏せる。後になって、失ってから気付くのは当たり前だ。だからさっきの公演でも、妹を失った兄は亡骸を抱きしめて泣き叫んだのだ。死んでしまった妹は二度と生き返らない。
「別に、遅くないだろ」
落ち込むアオコをあざ笑うかのように、ふんと鼻を鳴らして白井は言う。
「遅いかどうか、それもまた二人で考えればいいじゃねえか。劇の話じゃない、お前は死んだわけじゃないんだ。前はそうやって失敗したんなら、学習しろよ。しっかり話して、二人で考えていけば、次はもっとうまくやれるだろ」
「……でもあの頃ほど……あの頃と同じ気持ちで、ヒカルのこと好きなわけじゃないし」
「それも当然だろ。歳も重ねて余計なことばっかり考えるし、お互いの状況もあの頃と違うだろ。だからなんだ。俺たちはいつまでも若い頃みたいに燃えるような恋愛をしなきゃいけないのか?」
「……それは……」
アオコは言い返せなくなって口を結んだ。それでも表情の晴れないアオコを見て、ついに白井は舌打ちをする。
「ホントお前ら見てるとイライラするんだ。岡島も、香月も、何か言いたげな顔するくせに何も言わない。言いたいことあるなら言えよ。何を恐れてるんだ? それ以上踏み込んだら香月に嫌われるとでも思ってんのか?」
白井は本当に苛ついているらしく、荒い口調で言った。
アオコは目を丸くして白井を見る。的を射た言葉が、アオコの心に突き刺さる。いつも線を引くように突き放すヒカルが怖くて、彼の笑顔の裏に隠された感情に気づかないようにしていた。“アオは嘘つけないもんな”、ヒカルがそう言っていた意味が今ならわかる。自分を押し殺して言いたいことを我慢していたのが、彼には見透かされていたのだ。
「思ってた」
「はあ? マジで? お前らそれでよく付き合っていられたな。そんな他人行儀でうまく行くわけないだろ」
白井は眉間に皺を寄せて言う。じんと心から温かい物が溢れて、心のわだかまりが解けていく感じがした。
アオコは目尻を下げる。
「あははっ、なんか馬鹿らしくなってきた」
しがらみから解き放たれたように、両手を空に伸ばしてやっと笑ったアオコを見て、白井も満足そうに笑った。
まもなくアオコのマンションにたどり着いて、足を止める。
「白井、送ってくれてありがとう」
「香月のこと、頼んだぞ。……じゃあ、またいつか飲みにも行こうぜ」
「うん」
手を振って去っていく白井の背中を、アオコも手を振って見送る。
頼んだ、と言われても、そういえばヒカルは今日帰ってくるのだろうか。もしかしたらそのまま彼女と仲直りするかもしれない。可愛らしく彼氏に甘える紗綾の、気の強そうな目を思い出す。
アオコはマンションのエレベーターの中で、そうだったらやだなと小さく呟いた。
アオコは天板に取り出した合挽肉を睨みつける。ヒカルが帰ってくると決まったわけではないのに二人分の食事を作るのは如何なものだろうか。腕を組んで、一人でうーんと唸る。いや、考えても仕方ない。
アオコは玉ねぎを取り出した。ひと玉丸々みじん切りして、耐熱皿に入れる。ラップをかけて玉ねぎが透き通るまでレンジにかけた。“玉ねぎを飴色になるまで炒める”ことがどれほど難しいことか、アオコはよく知っている。これまで幾度となく挑戦して、玉ねぎを焦がしてきた。かといって生のままミンチと捏ねると、ハンバーグの成型ができずぼろぼろと崩れてしまう。そこで面倒くさがりなアオコは、“チン”してしまおうという結論に至った。
レンジを待つ間にきゅうりを洗っておく。きゅうりのヘタを切り落とし、スライサーで薄くスライスする。塩もみをした方が味も染みておいしいが、スライサーで薄く切って絞れば、それほど水っぽさも感じないので、アオコはいつも省く。小さなボールにきゅうりと、水で戻したワカメ、しらすを入れ、ポン酢とごま油で味を整える。
時計を見れば、まだ17時すぎ。ヒカルからの連絡は一切ない。
電子音を上げるレンジの扉を開けて取り出した皿は、カウンターで冷ましておく。さっと洗い物を済ませ、茄子を取り出した。茄子はヘタを切って、縦に二等分、それをさらに横に半分にする。フライパンに気持ち多く油を注ぎ、斜めに切れ目を入れた皮を下にして茄子を焼いていく。表と裏に焼き目がついたら水で割っためんつゆを入れて、蓋をして弱火で煮る。
片手鍋に水を入れて火にかける。冷蔵庫を漁って、残っているほうれん草を取り出した。沸くのを待ってから、適当な大きさに切ったほうれん草を入れる。顆粒の鶏がらスープの素はさっさっと、醤油と塩は味を見ながら入れた。
ある程度火が通った片手鍋とカウンターに置いてある耐熱皿を入れ替える。空いたコンロには新しくフライパンを置いた。
冷やした玉ねぎを合挽肉と一緒に大きなボールに入れ、塩胡椒、卵、パン粉を入れてぐちゃぐちゃと捏ねる。ほんの気持ちばかりの醤油を垂らし、もう一度ぐちゃぐちゃと捏ねて、小さめのハンバーグを成型する。小さい方が火が通りやすいということもあるが、なによりアオコは手が小さいのだ。油を引いて温まったフライパンにハンバーグのタネを入れた。じゅうううと音を立てて、肉が焼ける匂いが立ち込める。焼き色がついてフライ返しでひっくり返し、弱火にして蓋をする。
その瞬間、ぴーぴーと炊飯器が音を立てる。後は、ヒカルが帰ってくるのを待つだけだ。
ハンバーグ、きゅうりの和え物、茄子の煮浸し、ほうれん草のかきたま汁。
一人分だけ並んだ机を眺め、アオコは空しさを感じた。ヒカルが来る前は、良輔が来ることもあったがほとんど一人分の食器しか並ばなかった。見慣れた光景のはずなのに、物悲しくなるのは癪だ。いただきます、と呟いた声は、テレビの音にかき消される。
中まで火が通ったハンバーグは肉汁が溢れ、ケチャップとしっかり火の通った玉ねぎに絡み甘さが増す。お店のジューシーなハンバーグのようにはいかないが、アオコは家庭的なハンバーグの方が好きだった。ネギを散らした茄子の煮浸しも味が染み込んでいて、茄子何本でも食べられると一人で豪語した。味の濃い煮浸しをリセットする、さっぱりとした和え物は、しゃきしゃきのきゅうりと香るごま油が、さらに食欲をかきたてた。
「おいしい……」
ずずっとかきたま汁を啜る音が木霊する。
作った料理を、自分で褒めるしかない空しさに泣けてくる。涙で歪む景色の向こうで、目をくしゃりと細めて笑って、おいしいと言う幸せそうなヒカルの顔が浮かんだ。
そのたった一言で、自分は救われていたのだと言うことを知る。今更、知った。
「いてっ」
がたん、と物音がして薄く目を開けた。まだ覚めてないぼんやりした頭を持ち上げて、アオコは音のした方へ目をやった。
「ヒカル……?」
「あ、ごめんアオ。起こしちゃった?」
アオコは上半身を起こして眠い目をこする。重い瞼を無理やり開けているとだんだん目が慣れてきて、真っ暗な部屋の中で動く人影がヒカルだと認識できるようになった。
アオコは帰ってこないヒカルを待つことなく、食事と風呂を済ませ、眠ることにした。起きていると余計なことを次々と考えてしまいそうになったからだ。
ヒカルは、ベッドの上で布団に包まるアオコに寄ってきた。彼女の隣に座り、ベッドがギィと軋む。眠そうに少し目を瞑ったアオコを見て、ふっ、とヒカルは笑った。口元のほくろが色っぽい。
「サーヤと別れたよ」
ヒカルの手が、アオコの髪を梳くように撫でる。彼の目にはしっかりとアオコが映っている。引っかかっていたものが綻び、すっきりした顔だった。しかし、それを喜んでいいのか分からなかった。
「……そう……」
「あ、ごはん作ってくれてありがとう。ハンバーグおいしかった」
くしゃりと目を細めた。その笑顔を見て、胸がきゅんと鳴ったのが悔しくて、アオコは何も言えなかった。
髪を撫でていた手が止まる。その手をアオコの背中に回し、ヒカルは包まる布団の上から小さな彼女を抱きしめた。ふわふわと揺れるくせ毛から、自分と同じシャンプーの匂いがした。彼ももう風呂まで済ませたようだ。
「俺、明日の朝一で帰るから」
ぎゅうと強く抱きしめる。うん、と返事をすると、ヒカルはゆっくりと力を弱め、その手は名残惜しそうに離れていく。
「おやすみ、アオ」
ヒカルはアオコの額にわざとらしく音を立ててキスをした。
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