- day 1

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 彼氏にフラれた。  どうしてこんな事になったのだろう。最悪の月曜日で一週間は始まった。  岡島(おかしま) 碧子(あおこ)は部屋のベッドに死んだように倒れこむ。電気も付けず、枕元に置いたデジタル時計の緑の光だけがアオコを照らしている。ベッドのすぐ下には、脱いだままのベージュのジャケットと、彼にもらった通勤用の白の鞄が投げ捨てられている。鞄の中で音もなく光った携帯など、知る由もない。  部屋は1DKで、一人で住むには十分な広さだ。ベッドのある部屋とキッチンのあるダイニングは仕切れるようになっているが、もっぱら開けたままだ。部屋の中はすっきり整頓されており、女性が住んでいる割には少々殺風景だ。  その中で一角だけ異質な所がある。脱ぎっぱなしの靴下とジーパン、ぐちゃっと丸められた男性用のボクサーパンツ、それらが赤いおもちゃ箱のような入れ物に押し込められている。整然とした部屋では不自然な光景だった。  アオコはぎゅうと瞑っていた目を、急に思い切り開けた。 「……ああ! もう! なんっで私がフラれなきゃいけないのよ!」  そう言って上半身を起こし、枕をベッドに叩きつけた。ぼふっと手応えのない音がして、埃が舞う。それをわざわざ手で払うのも煩わしい。  アオコは今年、二十八になる。付き合って二年半になる彼氏とは上手くいっていた、はずだった。三つ年下で犬のようにアオコに懐く彼が可愛くて、先輩として悩み相談に乗っていたら彼の方から告白されて付き合った。早々に寿退社することが夢だったアオコは、彼と結婚することも考えていた。いや、結婚したかった。現に今日、“大切な話がある”と彼に呼び出された時は、ついにプロポーズされると思って舞い上がっていたのだ。  なのに、どうしてこんな事になったのだろう。  じんわりと涙が浮かんできた。泣く姿も美しいあの頃とは違う。声を押し殺して泣かなければならない自分もみっともなくて、狂いそうになるのを抑える。 「うぅ……うっ……リョースケぇ……」  良輔(りょうすけ)。先ほどまで一緒にいた彼氏、いや今となっては元彼だ。まさかこの自分が、男の名前を呟きながら泣くなんて思ってもみなかった。  アオコはぐしゃぐしゃになった顔でも多少残っている化粧を落とさなければと、部屋の電気を点けて洗面台へ向かう。  鏡に映る自分は恐ろしく酷い顔をしている。擦ってしまった目は真っ赤に腫らし、すっかり落ちたアイラインとマスカラのせいで、少し幼く見える。  泣き腫らす自分の顔を見ると、年下の男に執着しているようで、情けなくて吐気がする。そう思ったら、なぜかすんと涙が引っ込む。 「……え、怖い。涙止まっちゃった……」  悲しいはずなのに涙は出ない。もう枯れてしまったのか。はあ、と溜息をつく。シートで残っている化粧を丁寧に落としていきながら、こんな筈じゃなかったのに、と誰もいないのに呟いた。  部屋に戻って、ベッドの下に転がっているジャケットを取る。皺にならないように、二、三度はたいてからハンガーにかける。そういえばと思い出してジャケットのポケットを漁る。良輔に渡していた合鍵だ。先程彼から戻ってきた鍵を、そっと机の上に置く。  もう一つ転がっている鞄を見て、アオコは固まった。去年の誕生日に良輔に貰ったものだ。物に罪はない、そう言い聞かせて拾い上げる。中から携帯を取り出して、鞄は机の上に置いた。  携帯のディスプレイに映し出された一件のメッセージ。“今までありがとう”という自分に酔いしれたメッセージに反吐が出る。ここで涙を流せる女が可愛いのだろうか、と思いながら、メッセージに既読だけ付けた。  その瞬間、着信が入る。マナーモードにしていたので、音も振動もなく、ディスプレイに着信が入ったことだけ映し出される。 「──ヒカル?」  ディスプレイの文字を、目を丸くして見つめる。それは、もう何年もそこに現れることの無かった名前。  今日彼氏にフラれていなければ、悔し涙を流していなければ、電話がかかってきたタイミングで携帯を見ていなければ。きっとそのまま携帯を机に伏せていただろう。  これは好奇心だ。アオコはディスプレイをスワイプして、電話に出る。 『もしもし! オカダ! なあ今日泊めてくれない!?』 「え、ちょっ、うるさ……」  電話の相手は大声で捲したてる。声量に驚いて、アオコは思わず耳から携帯を遠ざけた。そして首を捻ってディスプレイをもう一度よく見た。“ひかる”と書かれている。 「……もしもし」 『オカダぁ、頼むよ。俺寝るとこないんだって』  懐かしい声。少し低く掠れた、あの頃大好きだった彼の声。香月(かつき) (ひかる)はアオコの大学時代に付き合っていた彼氏だった。同じ授業を受けていた以外に接点はなかったが、大学二年生から社会人になっても付き合っていた。 「……ねえ、誰かと間違えてない? 私、オカダじゃなくてオカシマなんですけど」 『オカシマぁ?』  一瞬声が止んだ。画面上に映し出された名前を確認しているのだろう。注意の足りない彼なら、“おか”と検索して出てきた相手を適当に選んで電話をかけてしまったことは容易に想像つく。  向こうの確認が終わったのか、軽快な笑い声が電話越しに聞こえてきた。 『ははっ。俺、アオにかけてた。間違えた』  どくん、と心臓が高鳴る。電話越しでも浮かぶ、彼の人懐っこい笑顔。アオ、と呼ぶ声が懐かしくて、枯れたはずの涙が溢れてくる。学生時代の甘酸っぱい思い出が急に思い出される。きっと、良輔にフラれたせいだ。全部、あいつのせいだ、アオコは机の上においたままの白い鞄を睨みつけた。 『……アオ?』 「あ、ごめん。なに?」 『アオでいいや。ねえ、今日泊めてくれない?』 「は?」 『今どこ住んでるの?』  アオコの素っ頓狂な声に構う事なく彼は言葉を続けた。ああ、そうだ思い出した。ヒカルは一旦言い出すと耳を貸さない。けれど、いくらよく知った相手でも、フラれたその日に別の男を家に入れるほど尻軽ではない。  アオコは携帯を持つ手を逆にして、眉間に皺を寄せて言う。 「無理。そんなの絶対無理」 『まだあの家住んでる?』 「ヒカル! 聞いてよ!」 『ははっ、アオは嘘付けないからなあ。違うって言わないってことはそうなんだ』  けたけたと電話の向こうで楽しそうに笑う。アオコは顔を顰める。ぎゅっと心臓を掴まれたような感覚に襲われた。  ──アオは嘘つけないもんな。  付き合っていた時に散々言われた言葉だった。図星だ。どうしてそんな昔のことを覚えているのか。調子が狂う。 『じゃあすぐ行くから』 「ちょっ……」  文句を言おうにも、電話からはツーツーという電子音しか聞こえなくなった。アオコはすでにぐしゃぐしゃになった髪をさらに掻き乱し、持っていた携帯をベッドの上に怒りに任せて投げた。 「何なの……」  今朝、いつもは欠かさず見るニュースの終わりにある星座占いを見忘れた。きっと蟹座は最下位で、恋愛運にハートは一つもついていない。アオコは溜息をつく。重い体を何とか動かして、風呂に入る決意をする。  何度も鳴るインターホンの音は、ドライヤーの音でかき消されていた。ドライヤーのスイッチを切った途端、けたたましく鳴るインターホンの音に、アオコは吃驚した。  インターホンに映し出されたのは、昔好きだった彼の顔。笑うと目がくしゃっと無くなって、口元の黒子が色っぽくて、雨の日になるとうねるくせ毛をよく気にしていた。  通話のボタンを押すと、しっぽを振る子犬のように嬉しそうな顔をした。 「アオ!」  顔を見ながら呼ばれると、本当にあの頃に戻ったみたいで、アオコは今度こそ涙を流した。両手で口元を押さえ、声を押し殺して泣く。 「ヒカル……」  これは好奇心だ。アオコは解錠のボタンを押した。  まもなく、階段を駆け上がる音がしてその足音はアオコの部屋の前で止まる。覗き穴から見ると、そこにいるのは五年前に別れたはずの、あの時間違いなく愛していたはずの彼で、夢でも見ているようだった。 「アーオー! 会いたかったっ!」  ドアを開けるやいなや、部屋に飛び込んできた彼は、一瞬の躊躇(ためら)いもなくアオコを抱きしめる。反動でばたんと閉まるドア。アオコは頭一つ分ほど背の高い彼の胸板に顔を押し付けられ、すりすりと頰を寄せてくる彼の、くせ毛があたってくすぐったい。ふわりと香る酒の匂い。 「…はあ!? あんた飲んでるじゃない!」 「ええ? 飲んでるけど?」  それが何、とでも言うように、体を離したヒカルは首を傾げる。それでいつもより陽気なのか。彼から漂う酒の匂いから、随分飲んだのだろうと予想できる。同い年なのに酔うほど酒を飲んで女の家に押しかける男に、アオコは呆れた。選択を誤った、と思った。  ヒカルは慣れた様子で部屋に上がる。ダイニングに置かれたソファにどかっと座り、テレビのリモコンをつけた。人の家なのに図々しい。アオコが社会人になって引っ越したこの家は、ヒカルと同棲するために借りた家だ。同棲するには手狭だが、大きな部屋を借りるほどの余裕はなかった。あの頃から、家具も、配置も、何も変わっていない。  アオコは玄関のドアに鍵をかけて、ヒカルが脱ぎ散らかした靴を揃える。 「ねえ、今日本当に泊まるの?」 「そのつもり。あ、アオ。腹減った」  急に押しかけておいて態度のでかい男に腹が立ったが、酔っ払いに何を言っても無駄なことはよく知っている。はいはい、と呆れた返事をしてアオコはキッチンへ向かった。  対面キッチンなので、キッチンからヒカルの姿がよく見える。アオコは何かあったか冷蔵庫を開いたところで、今日の夜は何も食べていないことを思い出した。良輔とレストランに行ったのだが、開口一番別れを告げられ、食事が喉を通るはずもなく、飲み物だけ飲んですぐにレストランを後にしたのだった。ぐう、と可愛くない音が鳴る。  冷蔵庫の中身は殆ど空っぽに近かった。アオコはいつも会社帰りにスーパーに行くのだが、今日はレストランに行ったので買い物に行けなかったのだ。  アオコは髪を一つにくくる。その様子を見て、ヒカルがおおと声を上げるが無視を決め込む。腕まくりをして手を入念に洗うと、冷蔵庫にわずかに残る野菜や肉の破片を引っ掴み、キッチンの天板の上に置いた。冷凍庫を開けてタッパーを二つ取り出す。それは蓋を開けてそのままレンジに押し込んだ。ボタンを三回、慣れた手つきで押す。  まな板を天板の上に置き、流しの下から包丁を取り出す。アオコはいつも他のより一回り小さい果物ナイフを使う。手が小さいアオコには、普通のサイズの包丁は手にあまり少し重いのだ。しかし、野菜をみじん切りするのに包丁の刃は長いほうが都合がいいので、今回は普通のサイズの包丁を使う。  まずは野菜を切る。四分の一だけ残った玉ねぎの、ぐるぐる巻きにしてあるラップを剥がし、繊維に沿って切れ目を入れる。ある程度縦に切れ目を入れると、さっと90度回して、とんとんとん、とリズムよく切っていく。細かく切れたら包丁の刃の根元でさらに細かくしていく。  キッチンの後ろに置いてある食器棚から深さのある皿を取り出すと、みじん切りにした玉ねぎを入れた。何の残りかも分からないピーマンも同じようにみじん切りして、玉ねぎと一緒に皿に入れた。  まな板と包丁を軽く水でゆすいだところで、レンジからピーピーと音が鳴る。ヒカルが呑気な声で、チンできたよ、などと言ってきたが、無視を決め込む。解凍した白ご飯を大きなボールに入れ、冷めるのを待つ。その間に鶏胸肉の破片も他の野菜と同じ大きさに刻み、フライパンを取り出した。  サラダ油を流し入れ、フライパンが温まったところで、玉ねぎだけを入れ──ようとしたのだが、ピーマンも少し入ってしまったので、面倒になり野菜を全部入れた。その勢いで鶏肉も入れた。木ベラでさっとかき回し、玉ねぎが透き通るのを待つ。  その間にシンクの洗い桶に投げ入れたタッパーと包丁、まな板を洗っておく。料理が完成した時に、準備に使った洗い物が終わっているのが料理上手だ、と母に何度も言われたからだ。  火が通ったのを確認して、火を弱める。卵を二つ冷蔵庫から取り出すと、ボールに入った少し冷めた白ご飯に割っていれる。殻を三角コーナーに投げ、上手く入ったのを見届けてから、フライパンに突っ込んでいた木ベラでご飯を混ぜる。醤油を少しだけ垂らしてもう一度混ぜる。  すっかり卵かけご飯になったそれを、フライパンに入れ、少し火を強めて再び木ベラで炒めていく。具材とご飯が混ざったところで、塩胡椒と顆粒の鶏がらスープの素を一回(ひとまわ)しずつ入れる。塩胡椒は気持ち多めだ。  フライパンを五徳に当てながら、ガチャガチャと振る。その音にヒカルがキッチンへ寄ってきた。 「チャーハンだ」  嬉しそうにヒカルは声を上げる。女性でも小柄な方のアオコの隣に立つ男は、威圧感があった。アオコからフライパンを奪うと、彼は器用に木ベラで混ぜながら時々フライパンをあおる。非力なアオコは重いフライパンを上手く振れないので、昔はこうやってヒカルがフライパンをあおる係だった。  その間にアオコは皿を二つ用意しておく。すっかりパラパラになった焼飯を皿に盛り、スプーンも皿に添える。皿をダイニングに運ぶヒカルの後ろを、コップと作り置きの麦茶を持ってついていく。  机の上に並べられた皿とコップ。ヒカルは満面の笑みで手を合わせた。 「いただきまーす」  一口食べて、嬉しそうに目をくしゃりと細める。懐かしい、アオコの好きだった笑顔だ。心臓がちくちくと痛い。あの頃の幸せなんて絶対に戻ってこないのに、取り戻したような錯覚をしてしまう。 「おいしー! こんなにおいしいもの食べられて俺は幸せだ」  酔っ払っているせいか、大げさに言うヒカルに、思わず笑みがこぼれた。 「アオ? 食べないなら俺もらうよ」 「だ、ダメ! 私もお腹空いてるんだから」  ちらりと目に入った時計は、見て見ぬ振りをした。こんな時間に夕食を取るのは久しぶりだ。今日はもう最悪な日なのだから、これ以上悪いことをしてもなんてことない。よく分からない言い訳をしてから、焼飯をすくったスプーンを口に入れる。 「んーおいしい! やっぱ卵かけご飯にしてから炒めると、パラパラのチャーハンができるよね」 「ああ、だからパラパラなんだ。お店みたい」  そう言う彼の皿は殆ど空だった。  アオコが食べ終わるまで、ヒカルは机に頬杖をついてテレビを眺めていた。最後の一口を食べて、ごちそうさまとスプーンを皿におくと、ヒカルは立ち上がる。今しがた食べ終えた皿を持ってキッチンへ向かうと、そのまま皿洗いを始めた。  アオコはその様子を対面キッチンのダイニング側から覗く。 「ごめん。ありがとう」 「なんでごめん? 美味しかったから、せめてのお礼だよ」  さらりというヒカルが妙に優しくて、疑いの目を向ける。  ジャーと水がシンクに流れる。それを眺めがならアオコは尋ねる。 「ねえ、何があったの?」  ヒカルは答えない。黙々と皿を洗い、水の音と、食器が擦れる音だけが返ってくる。昔から、都合の悪いことは言わない。ヒカルは付き合っていた頃から隠し事だらけだった。線引きされているようで、少し怖かった。  水がぴたりと止まる。皿洗いは終わったようだ。手を振って水気を落とし、かけていたタオルで手を拭いた。  ヒカルは顔をゆっくりと上げて、アオコを見る。笑顔が消え、真剣な面持ちの彼に、ドキッとした。 「アオ」  名前を呼ばれ、返事をする声がひっくり返る。彼の、口元のほくろが色っぽくて、心臓がうるさく鼓動する。一呼吸置いて、ヒカルは言う。 「ダメだ、吐きそう」 「は?」  それだけ言うとヒカルはトイレに駆け込んだ。すぐに苦しそうな嗚咽がトイレから漏れてくる。 「は……?」  もう一度間抜けな声をあげてから、開けっ放しのトイレを睨みつける。少し期待した自分がバカだ。ああそうだ、こいつはそう言うやつだった。  アオコはヒカルが洗ったばかりのコップに水を注いで、彼の元に持って行ってやる。トイレに漂う酒の臭い。ヒカルの吐く姿など見慣れている。無残な姿で便器に吐き出された焼飯を、レバーを下げて流す。  作ってやった焼飯をほんの数分で吐きやがって、とアオコが白い目で睨んだことは、トイレを抱えて眠りこける彼は知らない。
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