- day 2

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 やってしまった。  人生の後悔などごまんとあるが、大人になってからした後悔は、これがもっとも大きいかもしれない。  いつも通り携帯のアラームで目を覚まし、ベッドから手を伸ばしてカーテンを開ける。朝日に目が眩むのを耐え、上半身を起こして伸びをしながら無理やり体を起こす。目が覚め、ベッドから一歩足を出すと、部屋の違和感にアオコは悲鳴を上げた。 「ぎゃー!」  ソファに男が寝ている。男はアオコの可愛くない声でもぞもぞと動いているが、どうやらソファで眠るのは体の大きな彼には手狭のようだ。反対側に寝返りを打つと、少しも起きる様子もなく再び寝息をたて始める。  思い出した。昨日酔っ払った大学時代の元彼が、家に来たのだった。アオコは痛い頭を押さえた。どうして部屋に入れてしまったのだろう。いやそもそも、どうして電話に出てしまったのだろう。忘れたはずの過去の男に執着する女が一番みっともない、常々そう思っていたはずなのに。  アオコはおずおずと近づいて、ヒカルの顔を覗き込む。寝心地の悪いはずのソファで、幸せそうに眠っている。彼のふわふわしたくせ毛が、呼吸のたびに上下する。その頭にそっと手を伸ばす。 「ん……」 「はっ、ごめん。ヒカル……起こした?」  まだ触れていない手を宙で止める。ヒカルは少しだけ目を開けて、アオコを視界に入れる。 「アオだー……」  それだけ言って満足そうに笑うと、再びヒカルは目を閉じて、すうすうと寝息を立てる。とろんとした目で見つめられたことに少しだけときめいたことが悔しくて、幸せそうな寝顔を睨みつける。  アオコはベッドの枕元の時計に目をやる。あまりゆっくりしている暇はない。朝ご飯を食べる時間が惜しいが、今日は仕方がないのでコンビニで済ませることにしよう。アオコは立ち上がって、会社へ行く準備を始める。 「アオコ、これ頼んでもいい?」  机に向かって作業をする後ろから、すっとファイルを渡された。振り返ると、今一番会いたくない男がそこにいた。大賀(おおが) 良輔(りょうすけ)、昨日アオコをフった張本人だ。  アオコは何も言わずファイルだけを受け取ると、目を合わせることなく再び机に向かう。ファイルの中身を確認してから作業に取りかかる。  未だアオコの後ろに立ち尽くす男に気が付いて、振り返って首を捻る。 「まだ何か?」  平然を装って言う。良輔は何か言いたげに口を噛み、何もないと言って去って行った。その背中を見つめることもせず、アオコはすぐに作業を再開する。 「アオコって呼ばないでよ」  彼の持ってきたファイルを鋭く睨みつけて、それだけ呟いた。  アオコは会社からそのままいつものスーパーに足を運び、大量に買い込んだ袋を下げて家に帰る。昨日は外食だったことと、食材が無かったこともあり、今日は朝も昼もコンビニだった。今日こそはしっかり食材を買い込み、食を満足させなければならなかったのだ。  ふと、あのふざけた男の顔が頭に浮かぶ。昨夜間違い電話から、女の家に押し入ってきた大学時代の元彼だ。スーパーで買い物中も、なぜか彼の顔がちらついて、少しだけ多めに材料を買ってしまった。家に帰るのが少しだけ楽しみになっている自分が年甲斐も無く恥ずかしいが、こんな気持ちになるのはいつ以来だろう、と一人で笑う。 「ただいまー」  家の扉を開けながら放った言葉に返事が無い。アオコは首を捻る。 「ヒカル?」  いない、ヒカルがいない。  冷蔵庫の前に、買い溜めた食材を置いてから、ダイニングとベッドルームを見渡すが、目当ての人物は姿を消していた。アオコは慌てて家中探すが、広くない家はすぐに探し終える。  ついに玄関のドアを開けて彼の名を叫んだ。 「ヒカル!」 「はい、なんでしょう」  玄関のドアを開けてすぐのところに、彼は立っていた。昨日会った格好そのままで、コンビニの袋をぶら下げ、にこにこの笑顔でアオコの声に応えた。  ヒカルは慌てた様子のアオコを見て、にやりと笑う。 「アオ、もしかして俺が居なくなって心配した?」 「バッカじゃないの!」  思い切りドアを閉める。閉めないでよ、と不満げな声が外から聞こえてくるが、今開けられると真っ赤になった顔を見られてしまう。図星だった。久しぶりに会えたヒカルに、あの頃に戻ったみたいで舞い上がっていた。そのヒカルがと思って、酷い喪失感を覚えた。  ゆっくりと開いたドアから、ひょこっとヒカルが顔を覗かせる。アオ、と呼ぶその低く掠れた声に、泣きそうになる。顔を歪ませるアオコに、ヒカルは目を細めてくしゃりと笑った。 「よしよし」  学生の頃は、就活で上手くいかなかったアオコを、こうして頭を撫でて慰めてくれた。  頭を撫でる懐かしい手が気持ちよくて、思わず目を瞑る。その瞬間、ハッと息を呑む声がした。次第に離れていく手に目を開けると、ヒカルはバツの悪い顔で、ふいと目を逸らす。 「……ヒカル?」 「何でもない。ねえアオ、今日のごはんは?」  すぐに話をはぐらかす。いつもヒカルはそうだった。自分に都合の悪いことは、一切言わない。彼女ですら一線引いて、近づくなと言っているようだった。アオコはそれ以上追求しない。  ヒカルはテーブルの上に鍵を置く。それは昨日アオコが良輔から返却されたもので、机の上に置きっぱなしにしていたものだ。 「鍵使ったんだ」 「ごめん、勝手に使っちゃった。開けっ放しで出るよりいいかなって」 「全然いいけど。何買ったの?」  床に置いた食材たちを、空っぽの冷蔵庫に詰めながら言う。今日使う食材は天板の上に出しておく。 「パンツと歯ブラシ。最近のコンビニって何でも売ってるんだね」  そう言いながら袋の中身を見せびらかす。下着が二枚と、歯磨き粉が付いたタイプの歯ブラシを持っている。 「……え? ヒカル、いつまでいるつもりなの?」 「あれ? 言ってなかった? 一週間お邪魔するよ」 「いっ……!?」 「日曜には帰る」 「……けほっけほっ!」 「アオ大丈夫?」  驚きのあまりむせてしまったアオコに、呑気な声でヒカルは言う。大丈夫じゃない。いくら元彼とは言え、付き合ってもいない男を一週間も泊めるなんて。それも彼氏にフラれた直後に。  咳が収まって彼の方を見ると、そんなアオコの気持ちなど知らずに、ソファでゆったりと寛いでいる。アオコは盛大に溜息を吐いた。  アオコは髪を結んで手を洗う。炊飯器から釜を取り出し、米びつを開ける。テレビをぼうっと見つめるヒカルをちらりと盗み見て、ごはんは三合炊くことにする。明日の弁当分も込みだ。  米を洗いながら、対面キッチンの向こう側の男に話しかける。 「ヒカル、先にお風呂はいる? 昨日入ってないでしょ」 「えっ、いいの? あ、でも俺着替えなくてさ。パンイチでもいい?」  眉間に皺を寄せる。なぜヒカルのパンイチ姿を見なければならないのか。アオコは一旦米を洗った水を流し、新たに水を入れながら、どうしたものかと思案する。 「あっ」 「ん?」  もう一度同じ作業を繰り返す。 「そこの赤い箱の中、スウェットが入ってるから着ていいよ」 「これ?」  ヒカルは部屋の隅に置かれた赤いおもちゃ箱のような箱を開けた。ぐちゃぐちゃに詰められた男物の洋服。ヒカルはそれを摘まみ上げると首を捻る。  アオコは釜を炊飯器にセットして、炊飯を開始した。 「彼氏の?」 「えっと……元彼。ヒカルが来た日にフラれたの」 「ええ、なんか着るの抵抗あるなー」  けたけたと楽しそうに笑いながらヒカルは言った。良輔の話をすることに、思ったより抵抗を感じなかった。思い出せば涙が出てくるかとも思ったが、彼に対しての涙はやはり枯れたようだった。 「じゃあシャワー頂きます」  適当に掴んだスウェットとTシャツを持って、ヒカルは風呂場へ消えていった。  彼が風呂から上がるまでに、米は炊き上がらない。とりあえず下準備だけ済ましておこうと、天板に上げた食材を睨みつける。  ボールを取り出した。鳥もも肉2枚分を調理バサミで食べやすい大きさに切って、ボールに落としていく。皮はつけたままだ。切り終えたハサミはシンクの洗い桶に入れる。  流しの下から果物ナイフを取り出し、生姜の皮を剥く。デコボコの形に沿って皮を剥くのは面倒な上に、するときに煩わしいので、大雑把に剥く。十分な量の生姜をボールにすり終えると、塩胡椒を、料理酒と醤油をさせる。  食材用のポリ袋を取り出し、中と外を反対にして右手に装着、ボールの中身をぐちゃぐちゃと混ぜ合わせる。唐揚げは漬けるのではない、揉み込むのだ。ひとしきり揉んだ鶏肉は、上からラップをして冷蔵庫に入れておく。  風呂場からはまだシャワーの音が聞こえる。アオコはハサミとナイフを洗いながら、残りの献立を考える。  小さな片手鍋を取り出し、いっぱいに水を入れて火にかける。沸くまでまだまだかかりそうだ。冷蔵庫からほうれん草と、人参、下処理済みの袋に入ったごぼうを取り出す。  皮を剥いた人参とごぼうを同じ太さになるよう千切りにする。土の付いたままのごぼうでもいいが、洗ったり皮を剥いたり、アク抜きをするのが面倒なので、ごぼうの水煮を使うのが楽だ。  フライパンにごま油を流し入れ、温まったところで人参とごぼうを投入。だいたい火が通ってくると、砂糖を満遍なくふりかけ、醤油を垂らす。砂糖の加減を見ながらみりんも加えておく。すぐに焦げるので、ごぼうに醤油が絡んだら火を止めて蓋をした。 「お、いい匂い」  いつのまにかカウンターの方からヒカルが様子を見ていた。タオルを濡れた頭にかけていて、くせ毛が少しだけ真っ直ぐになっていた。良輔より体が大きいらしく、Tシャツはぴたっとしている。元彼の服を着る元彼、随分複雑な光景だった。 「髪乾かしてきなさい」 「はいはい」  再びヒカルは風呂場に消えていく。  沸いたお湯に洗ったほうれん草を根の方から突っ込んだ。風呂場から聞こえるドライヤーの音を聞きながら、すぐに鮮やかな緑色になったそれを、ざるにあげる。冷水で締めてから一口サイズに切って水を切る。これはもう皿に盛っておこうと小鉢を二つ、弁当用にカラフルなアルミカップにも入れ、冷蔵庫で冷やした。  炊飯器を見れば、もくもくと白い煙を噴き出している。炊き上がるには、まだ時間がかかりそうだ。  ほうれん草を茹でるのに使った鍋をスポンジで洗って、先程より少なめに水を入れ再び火にかける。適当に鷲掴みしたにぼしをぽいっと投げ入れる。  アオコはふわあと欠伸を噛み殺した。時計を見れば、もう19時だ。定時で帰ったのに、少し時間がかかりすぎたようだ。 「アオ、腹減った」  髪を乾かし、くせ毛が復活したヒカルは、歩くたびに髪の毛がふわふわと揺れて、たんぽぽの綿毛のようだった。 「ご飯がまだ炊けなくて」 「あーそれは大変だ。緊急事態だ」  大袈裟に言うヒカルに思わず笑みが溢れる。  アオコは桂むきした大根を、いちょう切りにする。とん、とん、と包丁の刃がまな板に当たる音を、ヒカルは目を瞑って聞いている。  沸騰したお湯からにぼしを掬い上げ、代わりに大根と、食器棚の引き出しから取り出したいつのか分からないワカメを一掴み入れて火を消した。  炊飯器を振り返ると、煙は少し落ち着いたようだ。アオコは気合を入れる。 「よしっ、揚げるよ」 「何揚げんの?」  冷蔵庫に入れていたボールを見て、ヒカルは興味津々に声を上げる。ごぼうを炒めたフライパンは、一旦カウンターに置いておき、重そうな天ぷら鍋を取り出してどんっと置いた。  油はたっぷりと。すぐに強火にかける。小さめのボールに片栗粉を少なめに入れ、そこに揉み込んだ鶏肉を数個入れ、満遍なく片栗粉にくぐらせる。 「唐揚げだ! 最高、アオコさま天才!」  ヒカルは嬉しそうな声を上げながら、ダイニングでくるくると謎の踊りを披露している。何をやっているんだ、と呆れながらも手は止めない。  菜箸を油に突っ込んで、ぶくぶくと泡が出てきたら、片栗粉を少しはたいた鶏肉を投入。じゅわあああと音を上げながら、鶏肉は衣を纏っていく。時々上下をひっくり返すだけで、あまり触らないでおく。  カリッと十分に揚がった唐揚げをバットにあげ、取り出した平皿に洗ってちぎったレタスを敷き詰める。油を落とした唐揚げを高さが出るように積み上げていくと、メインが完成した。 「はい、できた」  ヒカルはそのてっぺんをつまみ食いしようとして、アオコに手を叩かれる。 「つまみ食い、ダメ、絶対」 「厳しいなあ」  口を尖らせて文句を言うヒカルは、身体だけ大きな子供のようだった。  再び大根とワカメを茹でていた鍋に火を入れ、沸き立ったら火を止め味を見ながら味噌を溶かし入れる。少し薄い気がするが、薄いくらいがちょうどいい。味噌汁も注いでカウンターに置いておけば、彼は何も言わずとも運んでくれる。 「ヒカル、ほうれん草が冷蔵庫にある」 「はいよー」  まだ中身の残った片手鍋をカウンターに置き、代わりにフライパンを取った。中火にかけてサッと炒め直す。仕上げの白胡麻は多めが好きだ。これも弁当用に別にアルミカップに詰める。  ピーピーと炊飯器が音を出す。ナイスタイミングだ。アオコがご飯を茶碗に盛っている間に、ヒカルは箸とコップを準備した。あとは、そうだ、小分けされた鰹節を一つ握りしめて、アオコはやっとダイニングへ向かう。  唐揚げ、ほうれん草のお浸し、きんぴらごぼう、大根の味噌汁。  ヒカルは手のひらを合わせたまま、アオコの顔をじっと見る。待ちきれない様子に、思わずふふっと笑った。 「いただきます」  二人の声が重なる。  唐揚げは揚げたてが美味い。頬張ると衣がカリッと音を立て、じゅわあと広がる肉汁に生姜が香る。食欲を駆り立てる醤油の味で、白飯をかき込む。 「んまいっ。俺、アオの唐揚げ大好き」  アオコは思わず箸を止める。仮にも元恋人なのだ、大好きなどと目の前で言って欲しくない。じとっと白い目で見ても、彼は気にすることなく幸せそうに唐揚げを頬張っているので、アオコは眉を下げた。こいつには敵わない。 「全部美味しかったよ」 「……ありがと。そう言って貰えると作り甲斐あるよ」  ご飯の一粒一粒まで残さず食べて、にっこり笑った顔に救われる。誰かに作ったご飯を美味しいと言われる嬉しさを思い出した。  良輔も週に一回は家に来てご飯を食べていたが、何かと好き嫌いが多く濃い味を好む人だったので、アオコの薄味の料理を“味がしない”と言っていた。このほうれん草のおひたしだって、鰹節があればアオコは美味しく食べられるのだが、良輔は大量に醤油をかけて食べていた。育った環境が違うのでそうなってしまうのも理解はできるのだが、少しだけ傷ついた記憶がある。  思えば、良輔とは何となく合わないところが多かった。これはフラれた腹いせでそう思うのかも知れないが、食べ物の好みを始め、趣味や好きな物、共通点は見当たらなかった。それでも、アオコを好きだと言って甘える年下の彼が可愛くて好きだった。 「アオ」  不意に呼ばれて、アオコは肩を揺らす。ヒカルが顔を覗き込んできた。 「なに……ヒカル、近い」  アオコは目を逸らす。彼は人との距離が近い。大学時代も、付き合う前から抱きついたりスキンシップの多いやつだった。 「洗い物しとくから、風呂入ってきなよ」 「えっ、いいよ。昨日も洗ってくれたのに」 「だからせめてものお礼だって。それくらいさせてよ」  そう言いながらすでに食器をシンクへと運ぶ。残りの食器を運ぶのを手伝いながら、アオコはありがとうと言った。  風呂を済ませ、髪まで乾かし終えて部屋に戻ると、やけに静かだった。小さなソファでは、脚をはみ出して窮屈そうに男が眠っていた。時計に目をやると、まだ22時だった。小学生かよ、と呟いた文句にもちろん反応はない。  キッチンは綺麗に片付き、洗い物は水切りかごに整列している。律儀な人だ、と感心する。  ヒカルにそっと毛布を掛けて、アオコもベッドに潜る。昨日はさほど意識していなかったが、同じ空間に彼氏でもない男が寝ているのは少し緊張する。  そんなことで心を乱す年でもないだろう、と溜息を吐いて、アオコは眠りについた。
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