- day 5

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 大きな溜息をつく。 「アオコ、寝不足? 顔死んでるけど」  若いあの頃とは違う。少し眠れないだけで、顔に表れるようになってしまった。化粧で誤魔化せなくなった顔を、同僚の彼女に向けると、うわっと声を上げて顔を引きつかせた。  今日はトラブルもなく落ち着いて仕事を終えることができた。17時ちょっとすぎ、アオコは周りに挨拶をしてオフィスを後にした。お疲れ様、という温かい声がアオコの背中へかかる。ホワイトな職場は、すでに半分が帰宅していた。  エレベーターに乗り込んでからも、昨日の夜眠れなかった原因について悶々と考えていた。家に転がり込んできたあの男のことだ。アオコは今までそれなりに男の人と恋愛をして、その分別れを経験したのだが、ヒカルだけはその男の中でも少し違う。  大学二年生の春、一般教養の授業でたまたま隣の席になったヒカルは人懐っこく話しかけてきた。最初はナンパかと思ったのだが、どうやら彼の公演があるから見にきて欲しいとパンフレットをくれたのだ。  彼は演劇サークルに所属していた。その瞬間、運命的な何かを感じた。そんな乙女心など持ち合わせていないのだが、運命的な何かを感じたのだ。  アオコは演劇を見るのが唯一の趣味だったからだ。と言っても、プロの演者がする公演しか見たこと無かったので、大学のサークル程度のお遊びなどたかが知れている、と受け取ったパンフレットを見て思った。  しかし、彼の、目をくしゃりと細めた笑顔を見て、公演を見にいくと返事をしてしまったのだ。思えば、あれは一目惚れだったのかも知れない。  それから何度も演劇を見に行ったり、演劇以外でも二人で出かけたりするうちに、自然と付き合った。大学を卒業して、就職して、二人とも社会人になったタイミングで今みたいに同棲を始めたのだった。  エレベーターのドアが開く。ビルの入り口から差し込む西日が眩しい。アオコは夕日に向かって足を進める。  どうして彼が他の男と違うのかというと、要するにフラれた相手だからだ。良輔もそうなのだが、初めてアオコをフったのがヒカルだった。それまではアオコが愛想を尽かして別れを切り出すか、殆どが喧嘩別れだった。  ただフラれたのではない。ヒカルはアオコに別れようと言った訳では無かった。今日みたいに仕事を終えて、家にまっすぐ帰ったあの日、ヒカルは忽然と姿を消した。  始めから居なかったかのように、家に彼の痕跡は一切なく、どんなに連絡を取っても便りは全くなかった。必死の思いでヒカルを探したが、彼の友人も何も知らないと頑なに言い張った。  大切な物を失って気づくというのは本当で、抜け殻のようになって一ヶ月が経つ頃、ああフラれたんだと理解した。 「アオコ!」  会社を出てすぐに、名前を呼ばれて足を止めた。振り返ると、アオコをフった二人目の男がそこにいた。 「……大賀くん」  わざと苗字で言うアオコに、良輔は顔を顰めた。すぐに笑顔を取り繕って言った。 「昨日迷惑かけたから、お詫びがしたくて。……良かったら、その……この後ご飯でもどうかな」 「ううん、気にしないで。ご飯も遠慮しとく」  断ったのは彼がアオコをフったからではない。家で、腹を空かせたあいつが待っているからだ。  アオコの言葉に、そうだよな、と暗い顔をした。捨てられた子犬のようなその目に弱い。見れば可哀想に思えてくるので、アオコは目を逸らす。 「じゃあ、せめて送ってく。話がしたいんだ」  強気な口調でそう言われて、嫌とは言えなかった。  話がしたい、と言った割に良輔は黙ったままだった。もうすぐアオコの家に着いてしまう。このままでは話さずに終わってしまう。家の方向は反対のはずなのに、アオコを送るために遠回りをさせてしまっている申し訳なさで、アオコの方から促す。 「話って?」 「……ああ、うん」  歯切れ悪く言う良輔に、少し苛立ちを覚える。それを表に出さないように、心の中で深呼吸をする。良輔は唇を噛んだまま、まだ話し始めない。  沈黙は続き、アオコのマンションの前まで着いてしまった。それにようやく良輔も気が付いたようで腹を括る。 「……やっぱり、より戻さない?」 「え?」  アオコは思わず立ち止まった。やっぱり、って何だ。驚いて良輔の顔を見ると、彼の目はまっすぐアオコを見ていた。時間が止まってしまったかのように動かない二人を、暗くなりかけた夕日が包む。 「……アオコ?」  彼の声にハッとした。金縛にでもあっていたかのように動かなかった手足が、急に動くようになった。背中にぐっしょりと汗をかいているのが分かった。鞄を持つ手に力が入る。 「なんでそうなるの。別れたの、この前でしょ」  目を丸くして言う。声が震えているのが自分でも分かった。良輔は目を逸らさずに、声を大きくして言った。 「だって、アオコが俺のこと好きか分かんなかったから!」 「……な、に……」 「別れようって言ったら、嫌だって泣いてくれると思ったんだ。なのにアオコは平気そうな顔で……会社でも全然普通だし! 俺なんか仕事が手につかなくてミスばっかだし!」 「……何言ってるの……?」  アオコは顔を顰めた。そんな訳の分からない理由でフラれたのか。  少し子供っぽくて、趣味は合わないけれど、いつも前向きで年上のアオコに合わせようと必死に背伸びする彼が可愛くて、この二年半は間違いなく楽しかった。結婚だって考えたし、彼の子供なら喜んで授かりたいとも思った。本気で愛した。  なのに、彼に何も伝わっていなかったのか。彼は自分を信じてくれていなかったのか。  アオコの頬に涙が伝う。それを見て、良輔がバツの悪そうな顔で、手を伸ばしてきた。思わずそれをはたく。 「……触らないでよ」  冷たく言い放った言葉に、良輔は顔を歪ませた。はたいたアオコの手を、強く掴んで引く。 「なんでだよ! やっぱ、俺のこと好きじゃなかったのかよっ……!」 「なんで、そうなるの! 離して、リョースケ!」  アオコの腕をぎゅうと掴んだまま、彼は力を弱めようとしない。 「アオコが好きだ……」  彼の手を振りほどこうとしたが、良輔の目からぼろぼろと涙が溢れるのを見て、アオコは抵抗するのをやめた。  好きなら、どうして別れようなんて言ったの、そう言いかけて言葉を呑む。今更彼にかける言葉はない。よりを戻そうと言われて気持ちが揺らがないほど、アオコの心は冷め切っているからだ。 「離して」  ビクッと良輔の肩が揺れた。離れてしまった心は、もう簡単には戻れない。アオコは今彼に同情はあっても、それ以外の感情は抱いていなかった。  良輔は涙を流しながら首を横に振る。こういう年下の子供っぽさが好きだったのに、今となっては煩わしかった。腕を掴む手の力が強まる。 「アオ!」  少し低くて掠れた声が後ろから聞こえた。振り返ると、夕日を浴びてキラキラと輝いて見える男が走ってきた。一瞬、良輔が腕を掴む力を緩める。 「ヒカル……」  ヒカルは良輔からアオコを奪うように、掴まれていない方の腕を引き寄せた。アオコはあっという間にヒカルの腕の中に収まる。良輔の方を見せないように、後頭部に手を置き、ヒカルの胸板に押し付けられる。 「なんだよ……それ。そういうことかよ……」  良輔の呟きに弁解しようにも、ヒカルがさせまいと、ぎゅうとアオコを抱きしめる。 「愛した女を信じれてやれないのを、俺やアオのせいにしないでくれる?」 「……っなんだよ、えらそーに。お前、アオコと浮気してたんだろ!」 「アオのこと、信じれないんでしょ。それじゃあ、より戻すなんて無理だよ。君がアオに不信感を抱くなら」  アオコはドキッとした。どうしてヒカルは知っているのだろう。どうして良輔が不信感を抱いたから、アオコの心が離れたことを知っているのだろう。  良輔がどんな顔をしているのか、ヒカルのせいで全く見えないが、きっといつものように唇を噛んでいるに違いない。 「アオ、かえろ」  ヒカルは力を緩めた。顔を上げれば、彼はいつも通り笑ったので、胸が苦しくなった。うん、と小さく頷いた。 「なあアオコ! 俺のこと、好きだったのかよ!」  悲痛な叫び声に、アオコは振り返らない。唇を噛む彼の顔を見れば、酷く心を痛め、その手を取ってしまいそうだったからだ。  すうと息を吸う。 「好きだったよ。ちゃんと愛してた」 「……アオコっ……」 「さようなら、リョースケ」  行こう、とヒカルに促す。  数日前までは確実に愛していた彼の泣き声を背中に受けながら、自分はなんて冷たい人間なんだと思った。  玄関の戸を開けるまで、ヒカルは何も言わなかった。いつもへらへら笑っているのに、その時だけは真面目な顔して、また線引きされているようで怖かった。  家に帰ってくると、やっと良輔から解放された気がして、アオコはほっとする。 「ごはん、作るね」 「アオ」  ヒカルは困ったように笑っている。その表情の真意が分からず、アオコは首を傾げた。さらにヒカルの顔が曇った。 「何でもない」  俯いてしまった彼に、困惑する。あれだけ同じ時間を過ごしていたのに、彼が今何を考えて、何を期待しているのかが、アオコには分からなかった。  思えば、良輔に対してもそうだったのかもしれない。  ヒカルは先に部屋に入ったので、アオコも付いていくことにする。部屋に入ってジャケットを脱いで鞄を置く。ソファに座る白い鞄を見て、新しい鞄を買わなきゃなと思った。  そのソファに洗濯物が並んでいる。アオコは絨毯の上に直に座ったヒカルの方に顔を向けた。 「洗濯物入れてくれたの? ありがとう」 「ううん、ちょうど入れててよかった。ベランダからアオが見えたんだ」 「……ああそれで。ヒカル、本当にありがとう」 「俺、ヒーローみたいだったでしょ?」  ヒカルは今にも泣きそうな顔で無理矢理笑顔を作った。どうしてそんな顔をするの、その言葉を呑む。  アオコも作り笑いをして、うん、と言った。  アオコは髪を結んで手を洗う。  底の浅い小さめの両手鍋を取り出して、サラダ油をほんの少し垂らす。冷蔵庫から取り出すのは、ほうれん草、しめじ、鱈の切り身、鳥もも肉の残り、それから“筑前煮セット”。  “筑前煮セット”の水を抜いておく。きんぴらごぼうを作る時のささがきごぼうの水煮のように、“筑前煮セット”はすでにカットされた具沢山の根菜やこんにゃくが下ごしらえまで済ませて水煮されてある。これに炒めた鶏肉を入れて味付けをするだけで、簡単に筑前煮ができる。材料を買ってもいいのだが、具沢山にしたいし、こんにゃくやごぼうの処理が手間かかるし、と手軽さと材料費を総合的に考えると、圧倒的に“筑前煮セット”は楽なのだ。  アオコは常々思う、安く、うまく、面倒でない料理をしたい、と。  鳥もも肉を小さめにカットして、火を入れた鍋で軽く炒める。そこへ“筑前煮セット”を入れ、水、砂糖は一回し、醤油は砂糖より気持ち多め、みりんを少し入れる。くしゃくしゃに揉んだアルミホイルを再び伸ばし、鍋の上に敷き、その上から落し蓋をする。後は弱火で放置する。  あっ、とアオコは声をあげた。大切な物を忘れていた。炊飯器の方を見ると、すでに炊飯器はもくもくと煙を吐いている。 「もしかしてご飯も炊いてくれた?」 「うん」 「ありがとう」 「いつももりもり食べるの俺だからね」  ヒカルはテレビに顔を向けたまま言った。  今日はやけに気が利く気がする。いや、思えば再会してからのヒカルは、アオコに優しい気がする。元々優しい人だが、洗い物を積極的にしたり、洗濯物を取り込んだりと、妙に気が回るのだ。良い変化ではあるのだが、昔のだらしないヒカルを知っているので、何かあるのかと変に疑ってしまう。  片手鍋にお湯を入れ沸かす。先ほども使ったアルミホイルを今度は大きめに切る。折りたたんで器をつくり、バターを落とす。その上に鱈の切り身、石づきを取ってほぐしたしめじを置いて塩胡椒をふりかける。気持ち程度の醤油を垂らし、アルミホイルで蓋をする。それを二つ作って、水を薄く張ったフライパンに入れた。コンロはまだ空いていないので、カウンターにでも置いておく。  沸いたお湯でさっとほうれん草を茹でると、水で締め、一口サイズに切って水気を切る。小さめのボールに移すと、砂糖と醤油を交互にかけていく。ほうれん草の胡麻和えを作るとき、納得のいく味にする黄金比を計りかねているアオコは、何度も味をみながら調味料を足す。うん、と満足したように呟くと、すり胡麻を入れた。出来上がりは皿に盛っておく。 「アオー」  暇なのか、腹が減ったのか、ヒカルがキッチンへ寄ってくる。アオコはシンクに溜まった物を洗いながらヒカルの相手をする。 「ごめん、まだかかる」 「うん、大丈夫」  洗った片手鍋に水をいれ、もう一度火にかける。後から一掴みのにぼしを投げ入れた。  ヒカルはカウンターに手をついて、アオコの様子をぼうと眺めている。彼の顔はまだ曇ったままで、どこか引っかかる。彼らしくない暗い表情に、我慢できずに尋ねた。 「ヒカル、どうしたの?」 「……うーん……」  ヒカルは難しい顔のまま、低い声で唸る。  アオコは冷蔵庫から豆腐とネギを取り出した。豆腐もネギも、1cm大の食べやすいサイズに切っておく。お湯はまだ沸かない。 「ねえ、アオが怒ること、言っていい?」 「……怒るって分かってて言うの?」 「今言わないと、一生言えないと思うんだよね」  ヒカルの目はどこを見ているか分からない。何も映さないその目が怖くて、思わず彼の名を呼んだ。ヒカルは目尻を下げて口角を上げる。彼の作り笑いは、大学時代に散々見飽きた。 「俺、さっきの子の言うこと全部分かるよ」 「……どういうこと?」 「彼が言ったことね、叫んでたから聞こえたんだ。……全部、アオと付き合ってた時に俺が思ってたことと一緒だよ」  アオコは目を見開いた。火にかけていた片手鍋がぐつぐつ音を立てる。少しだけヒカルから目を離し、鍋からにぼしを取り出し代わりに豆腐とネギを入れた。 「どういうことなの?」  火を弱火にしながらもう一度尋ねる。アオコは鋭い視線をヒカルに向けた。それから逃れるように、彼は俯いた。泣いてしまうのを堪えるように、手をぎゅっと握りながら、彼はゆっくりと吐露し始める。 「アオは何も言わないから……俺も、きっと彼も、付き合ってて不安だったんだ。自分のことを好きでいてくれるのかも分からない。悲しいことがあっても我慢してるから、頼られない自分にいよいよ自信が持てなくなるんだ。それでね、自分に自信がなくて、余計不安になる。俺はこんなに好きなのに、アオはそうじゃないんだって。そう思ったら……やめたくなった。俺はアオを好きでいるのが辛かったんだ」  ヒカルは恐る恐る顔を上げ、何も言わないアオコを見た。  アオコはヒカルを一瞥もせず、カウンターに置いていたフライパンと片手鍋を入れ替える。フライパンに蓋をして、弱火で蒸し始めた。 「アオ……泣かないで」  言われてから、自分が泣いていることに気がついた。ぼろぼろと大粒の涙がアオコの目から溢れてくる。ヒカルはアオコに駆け寄り、後ろからぎゅうと抱きしめる。アオコはふるふると首を横に振った。 「どうして今更そんなこと言うの……」 「ごめん……」 「ヒカルも、リョースケも、別れてから言われたって、遅いのよっ……!」  ヒカルは抱きしめる力を弱め、アオコを自分の方へ向かせる。泣き顔を隠すように、両手で涙を拭う彼女に、ごめんね、と何度も言った。  もう一度アオコを抱きしめようと彼女の手を取ると、ぐっと肩を押され、ヒカルは後ろによろめいた。真っ赤に泣き腫らした目で、キッとヒカルを睨みつける。 「やめて。あなたが抱きしめるべきなのは私じゃないでしょ……! 今更ヒカルの優しさなんていらない……」  そう言い切った目にもう鋭い眼光はなく、虚しい色の目は弱々しくヒカルを見る。強気な口調で吐いておいて、いざヒカルがあの女の所に行くとひどく傷つくくせに、面倒くさい自分に嫌気がさした。 「……ごめん、アオ」  ヒカルは奥歯をギリと軋ませ、もう一度伸ばしかけた手をグッと堪えた。  静かになった部屋で、ぽこぽことフライパンが音を立てた。 「ごはん、すぐ作るね」  腕で乱暴に涙をぬぐい、アオコは無理やり笑顔を作る。ヒカルも顔を顰めて、うん、と呟いた。空っぽの目には、何も映っていない。  頭に入ってこないテレビを眺めながら、ヒカルはテーブルの上に頬杖をつく。ことん、と目の前に置かれた皿に、ようやく顔を上げた。アオコの目はまだ赤い。  次々に運ばれてくる、彼女の手の込んだ料理に、ヒカルは鼻の奥がツンとした。  しめじと鱈のバターホイル焼き、筑前煮、ほうれん草の胡麻和え、豆腐とネギの味噌汁。  アルミホイルの蓋を取ると、立ち込める湯気とバターの香り。淡白な鱈は、ホイル焼きにしたことでしっかり味が染み、食欲を唆られる濃厚なバターが間違いなく合う。 「アオのごはん、本当においしいね」 「……ありがと」  幸せそうに頬張るヒカルを見ると、どんなに荒んだ心でも笑みが溢れる。彼の“おいしい”で、アオコは全てが救われる気がした。 「ねえ明日は仕事休み?」 「うん、休みだよ」 「じゃあさ、連れて行きたいところがあるんだ。あ、早起きとかじゃないから」  その言葉に、アオコの箸が止まる。今更二人でどこに出かけると言うのか、少し顔が曇る。 「最後のお願い、だめ?」  ヒカルは困ったように笑った。アオコは顔を顰める。大げさな言い方をするヒカルの目が、本当にそうだと言っているようだったので、仕方なく、いいよ、と答えた。
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