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『君の生きる希望となるならば。』
「やめた方がいいよ」
鈴のような声が、冬の乾いた風に乗って少年の耳へと届く。
突然後ろから声をかけられて、孝太は大袈裟に肩を揺らす。振り返った視線の先にいたのは少女だった。焦げ茶色の髪はちょうど肩につくかつかないかほどの長さで、長ければ結ぶという校則にもギリギリ引っかからない。浴衣が似合いそうな東洋美人、黒々とした目、白い肌、背は女子にしては高い方なのかもしれない。
──綺麗な人だ、と素直に思った。
声の主は手を後ろに組んで、ふふんと満足そうに笑う。笑うと左頬だけにえくぼが現れ、初めの印象と変わって幼く感じた。
肌寒い風が吹いてスカートが少し翻る。丈の短いスカートからすらりと伸びる白い脚。孝太の視線は彼女の顔から下に移ったが、彼女がそれを気にしている様子はなかった。孝太の目はもう少し下に移り、彼女の足元を確認する。赤色の上靴は二年生の証だ。
「何が、っすか」
これが敬語なのか分からないが、孝太なりの敬意を込める。初対面の彼女に敬意などないが、年上にはそうするのが当然だろう。
質問されると思っていなかったのか、少女はきょとんとした表情をする。孝太を、いや孝太の先を指差して、彼女は言った。
「飛び降りようとしてたでしょ?」
「……はあ?」
少女の、ブレザーの下から顔を出すベージュのカーディガンで殆ど隠れている指先を、孝太は目で追った。
孝太は今、学校の三階建の校舎の屋上にいる。そこは背の高い金網のフェンスに四方を覆われて、まさにその金網に手をかけて下を覗き込んでいた。
もう一度金網越しにグラウンドを見れば、サッカー部がこの寒空の下、大声を張り上げて走っている。その中にいつも一緒にいる友人を見つけて、元気だなと他人事のように呟いた。金網を握った手に力が入り、かしゃんと軋む。
「何がっすか」
もう一度、少女に同じ質問をする。先ほどより顔を強張らせて、少女を睨みつけるように見た。ぷっ、と少女は吹き出したかと思えば、腹を抱えて笑い始める。予想外の反応に強張らせた顔はそのままで、めんどくさい女、孝太は呟く。顔は綺麗なのにな、と。
「あはは、ごめんごめん。少年が自殺するのかと思ったから」
「……いや、別に。ただ見てただけだし」
口を尖らせて言う。ふふっ、と少女は笑って、孝太にゆっくりと近づいてくる。孝太は身構えるが、それに構うことなく、彼がそうしていたようにグラウンドを覗く。ふーん、と関心した声を上げながら、懸命にグラウンドを駆けるサッカー部員を見ている。
すぐ隣まで迫ってきた少女の、ふわりと舞う髪から突如香る甘い匂いにむせ返りそうになる。心臓を擽られるような、三つ上の孝太の姉から香るものとも違う匂い。金網を握る手に汗をかく。先程まで寒くて震えそうだったのに、かあっと身体が熱くなった。それを悟られないように、孝太は少しだけ彼女から離れる。
「少年、組と名前は?」
急にぐるんと顔を向けて少女は言った。まるで生徒指導部の教師のように、偉そうな口ぶりだ。孝太はふいと目線を逸らして答える。
「一年C組、楢崎 孝太」
「コータね」
彼女は上手にウインクをした。孝太はこの小聡明い女の振る舞いに、心の中で舌打ちをする。自分はこういう女子女子した女子とは無縁だと思っていたので、どう接したらいいか分からない。
「……先輩は?」
「なあに、私に興味ある感じ?」
「……いや、別に」
聞かれたから聞き返すのが礼儀だと思っただけだ。調子が狂う。孝太は切ったばかりの短い髪をがしがしと掻いて、変なのに絡まれたと今日屋上へ来てしまったことを後悔する。うんざりする孝太の様子に、少女は笑って言った。
「二年A組、森本 仁菜だよ、コータ」
「ニナ、さん」
求められていると思って下の名を呼んでやると、案の定、嬉しそうな顔をする。予想できたのに、えくぼを左に作る彼女の笑顔に、胸を高鳴らせてしまった。
そのまま仁菜は軋む金網に背中を預けると、床の上に座る。孝太は、膝を抱えて座り込んだ彼女の白い脚をじっと見たが、スカートの中からちらりと覗く紺色の体操着に気が付いて、はあと溜息を吐いた。
「寒いからな」
「ん? コータ寒いの?」
不思議そうに顔を見上げた仁菜に、なんでもないと呟いて、孝太も座り込んだ。彼女の隣に座ってから気が付いた、どうして座ってしまったのだろう。しかし、今立ち上がってしまったら彼女は不審に思うかもしれないと思うと、その場から動けなかった。
「じゃあ、コータは何してたの?」
突然彼女は問う。孝太は空を見上げて、分厚く太陽を覆う雲をぼうっと眺める。“じゃあ”がどこに掛かっているか話の流れを思い出し、最初の彼女の発言までたどり着いた。ああ、と納得するように声を上げた。
「別に何も。こっからサッカー部見るの、好きなんすよ」
孝太は首を後ろに捻って、金網越しにグラウンドを見る。走り回る友人の姿を見て、身体が少し疼く。中学の頃は、孝太もサッカーをしていたが、自分には向いていなかったことに気が付いて、中学三年間でサッカー人生を終えた。元々サッカー観戦が好きで、好きだから上手になるわけではないと分かっただけでも、いい経験だったと振り返る。
仁菜も同じように顔を外へ向ける。
「本当だ、よく見える。好きな子でもいるの?」
「いや、何でだよ……。男しかいないじゃないっすか」
「最近はそういうのもありじゃん?」
そういうもんっすかね、と興味無さそうに言ったが、彼女は話を続けた。クラスにそういう子がいると話し始めるが、孝太の関心はすでに失せており、話は全く入ってこなかった。
「ニナさんは、何しに来たんすか?」
楽しそうに話す仁菜の話を遮って孝太は言った。あまりにも会話の途中すぎたせいか、“あ”の口のまま仁菜は顔をこちらに向けた。驚いて目も見開いていたので、綺麗な顔が台無しだった。ふっ、と思わず笑いを洩らす。
「あっ、コータ笑った」
「……いや、笑ってないっす」
ニヤける顔を腕で隠し、孝太は必死に笑いを堪える。ねえねえ、と仁菜は子供のように甘えた声を出しながら、顔を隠している孝太のブレザーの裾を引っ張った。それを軽くあしらってから、なんとか笑いが収まるのを待つ。
ふう、と息を吐いて仁菜を見れば、すでに孝太の方を見ていなかった。抱えていた脚を伸ばし、スカートの上に置いた手をじっと見つめている。
顔に影を落とすその横顔に、孝太は胸が高鳴る。伏せた目は長い睫毛で隠れ、雪のように透き通った肌、頬と潤んだ唇だけピンク色に染まっている。それが化粧によるものなのか、彼女の素材そのものなのか、女心が理解できない孝太には分からない。綺麗な顔してんな、と心の中で呟いた。そして、簡単に壊れそうだ、と思った。
「コータさあ……」
ぷっくりとしたピンク色の唇から発せられる自分の名前に、顔を顰めた。彼女は孝太の名を呼んだ割にそのまま黙り込む。孝太は立てた片膝に腕を乗せて、うわ言のように自分の名前を呟く彼女に、あのさ、と横槍を入れた。
「その、“コータ”ってどうにかならないんすか」
「えっ? コータじゃなかった?」
「……いや俺、コオタじゃなくてコウタだから」
むすっとした顔で言う。わざと不機嫌に言ったのに仁菜は満面の笑みだった。可愛らしい笑顔を孝太に向ける。
「分かってるよ、コータでしょ!」
「ああもう、いいっすよそれで……」
はあと溜息を吐いた。何が違うか分からないというように一人で首を傾げる彼女を横目に、腕枕に頭を乗せた。なんでこんなめんどくさい事になっているんだっけと目を瞑って考える。どうして彼女は屋上にやってきたのか、その答えも聞けずにいた。大して興味もないが、この女と話す事など他に見当たらない。
「コータ、好きな人いる?」
彼女はいつでも唐突だ。付き合いは短い、たった十分ぐらいだがすでに彼女の性格が分かった。腕枕に埋めた顔を少しだけ上げる。じっと孝太を見つめる大きな瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「いないっすよ、今は」
過去にもはっきりと居た記憶はないが、あえてそう付け足す。彼女の質問の意図が分からないことは突っ込まない。
仁菜は、ふうん、と満足げに笑った。そしてずいと身体を近づけてくる。あ、まずい、と直感で何かを察する。仁菜は、孝太の立てた膝に小さく白い手を置いて、パーソナルスペースにいとも簡単に侵入してくる。孝太はあまり身長が高い方ではないので、座ったままの彼らの視線は殆ど同じ高さだった。ねっとりとした目線を向けられて、どくん、と心臓が跳ねる。
「キス病って知ってる?」
「はっ、え……?」
「伝染性単核球症。キスで感染るんだって」
「……デンセンセー……?」
異国語のように彼女が何を言っているのか一つも理解できなかった。孝太はなんとか頭をフル回転させようとしたが、すぐに思考は停止する。仁菜はさらに顔を寄せて、孝太の唇に自分のそれを重ねる。
触れたのは、ほんの一瞬。しかし、孝太をその気にさせるには充分だった。
心臓が一瞬止まったかと思えば、すぐに素早く鼓動し始め、半開きのままの口からは酸素を上手く取り込めない。息苦しいのに、死よりも生を力強く感じた。
ゆっくりと身体を離す仁菜は、いたずらを終えた子供のように誇らしげな顔をしていた。
「コータ、初めてでしょ?」
小首を傾げて言った。図星を突かれた孝太はすぐに彼女から目を逸らす。口元を手の甲で触れると、先ほどの仁菜の柔らかい唇を思い出して、耳まで顔を赤くする。
「……だったら、なんすか」
「んーん。可愛い反応だと思って」
そう言って笑われたのがファーストキスを奪われたことよりも遥かに悔しかった。めんどくさい女だ、孝太は心の中で呟いた。そこでようやく揶揄われているということに気が付いて、冷静さを取り戻すために頭をがしがしと掻く。別に、高校一年生の男がファーストキスがまだだったからと言って、恥じることではない。心の中で自分を慰めるように繰り返す。
「で、さっきのなんすか。デンセンセー……ってやつ」
「なんかね、キスしたら感染る病気なんだって」
「それは聞いた」
怪訝な顔で言うと、彼女は大袈裟な笑顔を作った。彼女もよく知らないようではぐらかしているようだ。けれどそれを後で調べるというほど興味は惹かれない。
ようやく気持ちが落ち着いたのに、仁菜は黒目の大きな目を細め、えくぼを作った笑顔を再び孝太に向けた。男が喜びそうな仕草をよく知っているな、と感心する。それに例外無くときめいている自分を他所に、呆れたフリをする。
「でもさあ、キスってそれだけで病気になっちゃうと思わない?」
「ああ、うん、そうっすね」
めんどくさそうに返事をしても、仁菜がそれに構うことはない。彼女もまた、孝太の性格を理解してきたようだった。
ふいに風が吹く。吹きさらしの真冬の屋上は寒い。孝太は思わず膝を抱えて身を縮こませた。隣で脚を出した女は寒いだろうと、また黙り込んだ仁菜を見る。風でふわりと舞う髪から覗く彼女の顔に、ぎゅっと心臓が握りしめられる気がした。儚げで、壊れそうだ。
コータ、と潤んだ唇が名を紡ぐ。
「あのね、素敵な人とキスをすると、心がきゅんってして、明日まで生き伸びてやろうって気になるの。それってさ、もう病気だよね。ドキドキして、息が苦しくて、ぼーってするのに、活力が湧いてきて。相手にも、そうやって感染っちゃえばいいのに」
言っていることは彼女らしく道理に適っていないが、今まさに孝太にその症状が現れていることは、必死に冷静さを保っているつもりなので黙っておく。その上、“素敵な人”の意味がいまいち分からなかった。正直外見が非常に好みである仁菜を、“素敵な人”と評価するには早すぎる。ましてや自分は相手がどこの誰であろうと、女に迫られてキスされてしまえばドキドキしてしまう自信があった。
彼女は俯いた。風が止んで、儚げな表情は髪に隠れてしまう。泣いているのかもしれないと思ってそっと顔を覗き込んだが、彼女の目は乾いていた。ばちっと目が合って、ニヤリと仁菜は笑う。
「もいっかいしたくなった?」
「……バカかよ」
唇に人差し指を当てて揶揄うように言う仁菜を、思い切り睨む。小聡明い仕草に、彼女が先輩だということもすっかり忘れて悪態をついた。構ってられない、と溜息を吐く。
孝太は立ち上がって、白くなった制服のズボンをはたく。突然立ち上がる孝太に、仁菜はハッと息を飲む。顔を上げて孝太を見つめる目が震えていて、行かないでと訴えているようだった。急に見せられた彼女の弱さに、罪悪感に苛まれる。
それを見て見ぬ振りをして、最後に疑問を投げる。
「俺は素敵な人だったんすか?」
「……ふふっ、どうかな」
先程見せた淋しそうな顔は一瞬で消え、楽しそうに笑った。健全な男子高校生のファーストキスを奪っておいて、なんという言い草だと孝太は思った。そうだと言ってくれたら、多少今後の自信に繋がっただろうに。
孝太は素っ気なさを装い、後ろ髪を引かれる思いで、じゃあ、と言った。仁菜もそれに執着することなく愛くるしい笑顔でひらひらと手を振ってきたので、思わず顔を綻ばせてしまった。
ぱたん、と後ろで閉まった屋上への扉の音に振り返ることなく、孝太は階段を降りていく。階段の踊り場で身体の向きを変えるときに、青色の上靴がきゅっと音を鳴らす。
「何だったんだ……」
本当に何だったんだろうか、といくら自問自答してもその答えには辿り着かない。ふうと溜息を吐く。彼女のために、何度溜息を吐いて幸せを逃したか分からない。
しかし、本当に綺麗だった。あんなに自分好みの綺麗な先輩がいたんなんて、孝太は知らなかった。透き通った肌が、すらりと伸びる白い脚が、柔らかくてピンクに染まる唇が、コータと嬉しそうに呼ぶ笑顔が。とても綺麗で、儚げで──いとも簡単に壊れそうで、首輪を繋いで留めておかなければどこかに消えてしまいそうで。
自分の教室のある一階まで階段を下りようとした途中で、すれ違った女子生徒の会話が耳に入る。女の顔はよく見えなかったが、今しがた覚えたばかりの名前がハッキリと聞こえてきて、孝太は振り返った。彼女らの上靴は赤色だった。
「……ほんっと仁菜むかつく。カップルクラッシャーて言われてるだけあるわ。マジで死んで欲しい」
階段を上る彼女らの声が、耳鳴りのように孝太の頭に響く。孝太は途中の踊り場で足を止めた。もう姿が見えなくなった女子生徒の行った先を見つめながら、ぐっと顔を歪ませる。
「……もしかして、いや、まさか……」
ぶつぶつと呟きながら足を動かせないでいる自分に、舌打ちをする。めんどくさい女なんてほっとけばいいのに、と自嘲した後、ふーっと今日一番の溜息を吐く。孝太は今下りてきた階段を、駆け上がる。
「──やめたほうが、いいっすよ」
孝太は屋上の入り口の扉を勢いよく開けて言った。階段を駆け上がったせいで息を切らしながら、だからサッカーをやめたんだと自分の体力の無さを痛感する。
仁菜は金網に手をかけたまま、ぼうっと下を見つめて立ち尽くしていた。孝太の声にびくっと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。ぎゅうと金網を握って、困ったように笑う。
「……何が?」
か細い声で言った。ようやく息を整えた孝太は、仁菜の側まで歩み寄る。彼女を背の高いフェンスへ追い詰め寄るように近づくと、仁菜の顔のすぐ横に手をついて彼女を覆い囲む。孝太の手が、かしゃんと金網を軋ませる。目線の高さがあまり変わらないのが格好つかないが、そうでもしなければ仁菜が逃げ出しそうだと思った。
「ニナさんでしょ、死のうとしてんの」
鋭く睨みつけて言うと、仁菜の大きな黒い瞳が揺れた。それを誤魔化すように視線を外して、乾いた笑いを洩らす。
「なに、さっきの仕返し?」
先程まで明るく鈴のようだった声が震えている。肩も小刻みに震えているが、寒さが理由でないことくらい分かる。彼女の見え透いた嘘に、何でそこまで頑ななんだと、思わず笑みが溢れた。金網についていた手を離し、ふっ、と笑う孝太に仁菜は目をぱちくりさせた。
孝太はその場にあぐらをかいて座る。おずおずと様子を窺う仁菜も、目線を合わせてぺたんと座りこんだ。彼女の目は、どうしてと訴えかけてくる。その答えは、孝太自身でさえ分からなかった。ただ、仁菜の儚げな横顔を思い出すと、死を覚悟した人間はこうも綺麗で壊れそうなのかと興味を惹かれたのだ。それを仁菜に伝えれば怒られそうだったので、孝太の中に留めておく。
「命は大事にしないとダメっすよ」
「……男のコータには分かんないよ」
「まあ……そうすね。でも、分かんないなりに話ぐらい聞けるけど」
顔を顰める仁菜に、孝太は身構えた。知り合ったばかりの女に泣かれては困る。三つ上の姉は泣くと弟に当たり散らしてめんどうなのだ、女はみんなそうだと思っている。
しかし仁菜は泣かなかった。俯いて憂う表情の彼女を見て、ああ泣いてしまえた方がマシなんだ、と孝太は悟った。泣いて鬱憤を晴らせるなら、死など選ばない。
「友達の彼氏にしか好かれないんだ、私。あいつらバカだから、彼女いるのに告白するんだよ。断っても、しつこくて、無理やりキスしてくる奴もいるし」
だから友達に嫌われるの、と眉間に皺を寄せて苦しそうに言った。
あまりにも仁菜が死にそうな顔をしていたので、お前も無理やりキスしただろ、と出かけた言葉を呑み込む。いや、本当に死のうとしていた顔だ。きっとこの屋上に先客がいなければ、まさに飛び降りようとしていた。孝太がそう確信したのは、仁菜の目に映る覚悟を見たからだ。
タイミングが違っていれば、孝太がグラウンドを覗き込んで見たのは走るサッカー部員ではなく、彼女が血で真っ赤に染まって横たわる姿だったかもしれない。そう思うとゾッとした。
しかしそこまで追い詰められた彼女を見ても、同情はしなかった。厳しい女世界が生きづらい彼女を可哀想とも思わないし、自業自得なビッチとも思わない。ただ、救ってやりたいと漠然に思う。
巻きこまれた上に、知らない女を救いたいと思うなんてどうかしてる。死んでしまうなら一人で静かに死んでくれ、と冷酷な考えが浮かんだが、それは孝太の秘めた邪心によってすぐにかき消された。孝太が乗せられてしまうことまで読んでキスをしていたとすれば、彼女は相当な策略家だ。小聡明く可愛らしい笑顔を思い出して妙に納得してしまう。
「なあ、ニナさん……俺は素敵な人だった?」
答えてくれなかった質問をもう一度繰り返す。
これはそう、病気のせいだ。彼女の言う、“きゅん”というのはよく分からないが、きっとこの胸の高鳴りは、“キス病”とやらを発症してしまったんだと孝太は思った。だから動悸がして、息が苦しい、重篤な病だ。そして病というにはしかし、どうにもできない生彩を放っている。
仁菜はハッと息を飲んで、驚いた表情をしていたが、孝太は続ける。
「あんま心をきゅんとさせる自信、俺にはないっすけど……明日まで生きてくれませんか?」
仁菜の顔が段々歪む。次第にこみ上げてくる涙に構うことなく、彼女は目を細めて笑う。ほろりと落ちた涙が、えくぼを伝う。孝太はその涙にホッとして、もうすでに彼女を救えた気になった。
仁菜はブレザーの裾から覗くカーディガンでごしごしと顔を拭いて、はなから泣いていなかったかのように笑う。これを見せられては、恋人がいようがいまいがコロっと落ちてしまうのは分かる、と撃沈していった男たちには同情する。
「ふふっ、仕方ない。コータのために生きてあげよう」
「仕方なしに、っすか」
不満げに口を尖らせてみたが、心はじんと温かく気分が高揚している。男って単純だな、と他人事のように思う。胸が熱くなって、目の前の彼女を壊してしまいたいという欲に駆られたのを、必死に悟られないようにする。これが病なのだろう。だとすれば、この病気が彼女に感染ってしまえばいいのに。
そんな孝太の心の内などお見通しだという様子で彼女は言う。
「ねえ、コータ。もし明日私が生きてたら、明後日まで生きられるようにキスしてくれる?」
孝太は、相変わらず心を擽ってくる仁菜の笑顔を見て、仕方ないっすね、と笑った。
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