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夏
春は桜とともに散り、夏になった。受験生にとっては試練の季節。
「未奈さん。模試はどうでした」
「まあまあよ」
見せてもらった成績表には完璧な点数が並んでいる。
未奈さんはじつは年上の二浪生で、超一流の難関大学を目指していた。
今回の全国模試では上位一桁だった。
「模試で一喜一憂しても意味がないもの。すべては入学試験だから」
ほぼ満点にちかい未奈さんの言葉には説得力がある。
なにもかもかなわないなぁ。
わたしは白旗をかかげながら自分の問題点を分析する。文系科目は良かったものの数学が大問題だった。
この点数じゃ、ライバルたちに笑われてしまう。
「数学って、どんなふうに勉強しますか。講義をまとめたり参考書を解いたりする以外にするべきことはありますか」
「人によるとしか言えないかな。理解するまでとことん考える人もいるし、解答を暗記する人もいるもの」
わたしは唇を噛みしめた。
やはり受験には魔法も近道も存在しないみたい。地道に知識を積みあげるしかない。
「それはそうと」
未奈さんはぱっと表情を綻ばせた。その声は宙で踊っている。
「カラオケに行きましょう」
「え、カラオケ。でも明日の予習が」
「なに言っているのよ。たまには休憩しないと息切れするわよ」
言いくるめられる形で予備校をあとにする。
照りつける太陽がアスファルトを焦がしていた。
まあ、いっか。未奈さんのお誘いだもの。そうやって長い物に巻かれて優柔不断な自分を納得させる。
目的地はすぐそこだった。
未奈さんは自分の家みたいにすいすい進んでいく。
たどりついたのは一番奥、雄叫びがドア越しに響いていた。
え、どういうこと。
戸惑うわたしを意に介さず、未奈さんはドアノブに手をかけた。
「おまたせ」
「おせぇぞ、未奈」
なかに入った瞬間、人いきれが全身を覆った。
マイクのハウリングが肌に突き刺さる。
大部屋はさながらダンスホール、男女数十人がひしめきあっていた。
わたしは思わず後ずさる。
部屋中からタバコとアルコールの匂い。
「未奈さん、これって」
「たまには社会勉強もしないとね。浪人生って大学0年生なんだから」
未奈さんはワンピースをひるがえすと裸で踊る人たちの輪に混ざっていった。
信じられない光景。ここにいちゃだめだと本能が叫んでいる。
ひきかえそうとしたら、太っちょの男の人にドアを塞がれた。
そして二の腕をいきなり掴まれる。わたしは悲鳴をあげた。
けれども狂乱の宴のなかでは、だれの耳にも届かない。
「いいじゃん。遊ぼうぜ」
ただひたすらに怖かった。だれか助けて。
心のうちで叫んだそのとき、ドアが開いた。一筋の光が差しこむ。
握力がゆるんだ隙をついて部屋を飛び出した。
入れ違いになったその人とぶつかる。
硬いものが額に触れたけれども気にしてはいられない。
一秒でも早く逃げたかった。
予備校まえに辿りついても全身がふるえた。
わたしは自動販売機の横の植木スペースにへなへなと座った。
涙が蛇口をひねったようにあふれてくる。
未奈さんのことを尊敬して、姉のように慕っていたのに。
裏切られた気分。
「やっと見つけた」
だれかの影が庇のようにわたしを守った。
その優しい声音に顔をあげると、どこかで見かけたことのある男性が立っていた。
ブルージーンズに黒い半袖シャツ、胸元にシルバーネックレスをしている。
あ、この人。ドアを出るときの額の感触が蘇る。
たぶん、ドアを開けてくれた人だ。
その人はなにも言わずにわたしの横に腰掛けた。
泣いているわたしを見て通行人が不審がってもまったく意に介さない。
やがてわたしはすこしずつ落ちつきを取り戻していく。そんなわたしに彼は言う。
「ここは移り変わりが激しい場所で、ああいうふうに鬱憤を晴らす奴らもいるんだ。あまり褒められたことじゃないんだけれどね」
いま思うと予兆はあった。
未奈さんは可愛くておしゃれだし、たくさんの異性とも仲良くしていた。だけどあんな一面があったなんて。
「未奈を責めないでやってほしい。あいつも苦労しているから。だけど傷つけたのは事実だから、代わりにおれが謝るよ。ほんとうにごめんね」
わたしはしゃくりあげるのをやめた。
なぜこの人は、こんなにも親身になってくれるのだろう。
その表情はなにも変わらずなにも語らない。凪いだ湖みたいな人。
こちらの感情を荒立たせることなく寄り添ってくれる。
「あなたの名前は」
「藤原 大貴。井上さんとは隣のクラスだよ」
「待って。なんでわたしの名前を知っているの」
「これ」透明なクリアファイルを差し出した。
「ドアのまえに落ちていたんだ。井上さん、英語が得意なんだね」
「どうして。え、まさか」
わたしは手元のカバンを開けて成績表を探す。
ない。どこにもない。まさか。
わたしはクリアファイルをまじまじと見た。そこにはわたしの名前がある。
「か、勝手に見たんですか」
「悪かった。だけど折り入ってお願いがあるんだ」
彼は困ったように手を合わせた。
「おれに、英語を教えて欲しいんだ」
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