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秋
夏は線香花火のように燃え、やがて秋になった。
教室の空気がピリつきはじめる。
わたしは母にお気に入りの山吹色カーディガンを送ってもらった。
この場所はわたしの住んでいた南方町と違って、かなり冷える。
「あのですね、大さんの英訳は意訳っぽいんですよね」
わたしと大さんは勉強仲間になった。
お近付きの印としてニックネームで呼ぶことになり、わたしは大さんに苦手な英語を、大さんはわたしに得意の数学を教えることになった。
「たとえば、この文章。直訳は『花が咲くときに限って雨風が多い』です。だけど大さんは『花に嵐のたとえもあるぞ』と訳しているんです」
それは『さよならだけが人生だ』に続く文章で、味わい深くて良い英訳だなと思っていた。
だけど試験では主語と述語に忠実に訳すほうが無難とされている。
大さんはふむふむと頷きながらメモを取っていた。
この勉強会のとき、わたしの心臓はばくばくして仕方がない。
医学部志望の大さんの解答を添削するなんて、あまりにもおそれ多いから。
だけどそのぶんだけ、勉強するので得意だった英語がさらに伸びた。
「次はわたしの番です。この問題を教えてください」
「どれどれ」
「この図形問題です。なんど解説を読みかえしても理解できなかったんです」
ほかの教科であれば、参考書を調べれば納得いくものが多い。
だけど数学だけは違った。見慣れない図形があるとしよう。
そのままでは解けないから補助線を引く。
そうするとあら不思議、三角形の内角の公式で問題が解ける。
じゃあここで質問です。
そもそもなぜ『補助線を引く』という発想に至るんでしょう。
それがもっとも難しい問いだ。
「ひとめ見たとき、補助線が引けそうに感じなかったかな」
感覚派の大さんは首を傾げる。
「図形が相似っぽいよね」
これだから地頭の良い人は。
わたしが困惑しているのが分かったのだろう、大さんは「こんな裏技もあるよ」とまっさらな印刷紙をファイルから取り出し、図に矢印を付けたして説明してくれた。
その手つきには一切の迷いがなくて惚れ惚れする。
「じつは図形問題はベクトルで解くこともできる」
「はあ。ベクトルですか」
「地道な計算に耐えられれば正解にかならずたどりつける。覚えておいて損はないよ」
天才的な閃きがないわたしにとってはありがたい解法だ。
すこしでも大さんに近づけるように頭をフル回転させる。
そんなわたしたちの横を未奈さんが通り過ぎた。見知らぬ人たちと談笑しながらこちらに一瞥をくれる。
わたしはおもわず身体をちいさくする。
あの一件以来、わたしは未奈さんと一緒にいるのをやめ、あんなふうにはなりたくないと反面教師にしていた。
未奈さんを見返したい。
そんあよこしまな想いだって、いまじゃ原動力だ。
やがて閉校のベルが鳴り、わたしたちは帰ることにした。
集中すると時間はあっというまにすぎていく。
カレンダーがめくれるたびに近づいてくる受験の足音。
まだ聞きたくないような、はやく受け入れたいような中途半端な気持ち。
このところ胃がきりきりと痛むのは、きっと気のせいじゃない。
「大さんが医師を目指された理由はなんですか」
下校時間も面接試験対策にあてる。なにかに集中していないと、不安がすぐに立ち込めてしまうから。
「その質問が、いちばん困るんだよね」
大さんが夜空に向かってはあっと白い息を吐くと、きらきらと光る流れ星に変わった。
最近知ったことだけれど、大さんの家は兄弟含めて全員がお医者さんらしい。
そんな家系に生まれた大さんの両肩には、どれほどの重圧が掛かっているんだろう。
「逆に恵実ちゃんは、どうして獣医学部なの」
「わたしは、動物が好きなんです」
うーたんが人参をもそもそ食べる姿が思い浮かんだ。
はやく地元に帰りたい。
根なし草の浪人生に吹く秋風は、あまりにもきびしい。
「家で飼っているうさぎを診てくれる近所の獣医さんが、とても優しくて。大好きな地元で、大好きな動物たちの怪我を治してあげられたらって」
「……羨ましいなぁ」
「なにがです」
「そのまっすぐな一途さだよ。おれたち多浪生は言い訳ばかり巧くなるから。足踏みが長くなるとやっぱり純粋ではいられないのかなぁ」
大さんの自転車の車輪がからからと音を立てた。
うわさで聞いたことがある。
多浪生は一浪するごとに志望校合格の可能性が著しくさがるという。
わたしの教室にも八浪生がいて、だれも話しかけられずにいる。
だから考え方も次第にドライになっていくのかもしれない。
「こんなの、どうかな」
大さんは首筋に手をあてながら呟く。
「電気ストーブってあるよね。オレンジ色の線がまんなかに走るやつ。おれさ、幼稚園の頃にそれに無性に触ってみたくなったんだ。それで」
わたしが渋い顔をしているのが分かったのだろう、大さんは詳細な描写を避けた。
「気絶するほどに痛かったんだよ。だけど薬を飲むとましになって、やっぱり医者ってすごいなって再認識した。いまじゃ跡も残ってない」
「素敵な理由だと思いますよ」
「こんなんでいいんだ。ありきたりだと思ったんだけど」
大さんは恥ずかしそうに頬を掻いた。
わたしはその困ったような顔が可愛いくて、一緒に合格したいなぁと頼りない秋空に願った。
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