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冬
秋はやがて深まり、冬が訪れた。
わたしは焦っていた。点数が思ったように伸びなくなった。
いや、それだけじゃない。
現役生が猛烈に追いあげてきた。
たった一年の差しかないはずなのに。若さとは恐ろしい。
「どうしよう」
不安の影が日増しに濃くなる。
参考書をめくるたびに知らない概念や定理に出逢う。
もしもこの問題が試験本番に出題されたら。
その恐怖に負けて必死に知識を詰めこもうとする。
けれども物覚えがわるいわたしには、とうてい無理な話、不完全な理解に終わってしまう。すると見たはずの問題が解けなかった自己嫌悪におちいる。
そしてまた無理をする。
そんな悪循環にはまっていた。
「肩の力を抜こう」
インフルエンザ予防でマスク姿の大さんは、わたしが受験する大学の赤本を眺めていた。
ノルディック柄のセーターがよく似合っている。
「合格を分けるのは難問や奇問じゃない。みんなが解ける問題を落とすことだ」
頭では痛いほど分かっていた。だけど心配は尽きない。
みんなの背中が遠くて辿りつけない。そんな夢で跳ね起きる夜もあった。
「このまえの模試、前年度より簡単だったね」
未奈さんが教室でチョコレート菓子を食べながら笑っている。
わたしはぎゅっとハンカチを握りしめる。自分が壊れてしまいそうだった。
どうしてこんなに苦しいの。
いまじゃ携帯の通知にすら怯えている。
高校や大学の友達が楽しそうにしている写真を見てしまったら、わたしの心はばらばらになってしまうかもしれない。
「もう、駄目かもしれない」
「そんなことない」
大さんは力強く励ましてくれる。
「成果はかならず出る。これから毎日数学の特訓をしよう。苦手な教科を潰すほうが精神衛生的にもいい」
「いいんですか」
「ここまで一緒にやってきたんだ、最後まで責任を持たせてほしい。あとすこしだけ、一緒に頑張ろう」
「……大さん」
わたしはただただうつむいた。地球上のどこを探しても、こんな人には2度と出逢えない。この胸の高鳴りを伝える言葉を探したけれど、いまのわたしには見つけられなかった。
☆
受験本番のその日、街に雪が降り注いだ。
手袋越しでも指先がかじかみ、寒風がマフラー越しに侵入してくる。
受験会場に集まったみんなも緊張していた。
そのなかでわたしは静かに目を閉じた。
大さんがくれた『合格』お守りを握りしめながら。
「それでは、はじめ」
ついに試験が開始された。
もっとも苦手としている数学から。5問のうち3問完答できれば合格ライン。
まずは問題形式を確かめていく。
簡単な小設問に確率、二次関数、微分と積分。そして最後の設問。
問題用紙をめくったわたしは天を仰ぐ。
そこには平面図形をベクトルで解く問題が出題されていた。
「数学、難しかったね」
青白い顔の受験生の合間を縫うように駆けていく。
転けないように必死だ。はやく大さんに報告したい。
約束のカフェまでの道のりが果てしなく遠い。
やっとの想いでたどり着くと、彼はすでに席で待ってくれていた。
「大さん」
「おつかれさま、どうだった」
「たぶん、出来たと思う」
「やったね」
「ほかの教科も大丈夫でした。わたし、なんてお礼を言えばいいのか」
わたしは幸福に包まれていた。
努力は実る。そのことが証明できたことが誇らしい。
「大さんは、どうでしたか」
「おれも手応えがあったよ」
「さすが大さんです」
「結果が楽しみだね」
わたしたちはこれまでの苦労を嬉々として語りあった。
最高の一日。
そう信じたわたしは、本当におめでたい人間だった。
浮かれてすっかり忘れていたんだから。
神様はいつだって、意地悪だということを。
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