トリップ 2/2

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トリップ 2/2

 一人になった知佳は羽田のメールを開封し指示された通りにCAD部品を展開した。まずは羽田が設計変更したというステップ部品を選択し、改めて観察してみる。  形状は直方体で大きさはまさにティッシュ箱くらい。両サイドには五百硬貨よりも一回り大きな穴が空いている。ステップの中央は肉抜きされており表面は滑り止めのために突起が施され、知佳は自転車のペダルを想起する。  ステップ部品の構造を理解した知佳は、次にパイプ部品をCAD上に読み込んだ。こちらは知佳が再設計しなければならない。  パイプ部品はステップの丸穴に合うよう円形で、中央に曲げが入るため全体としてはL字だ。長さや曲げ加工の位置といった形状は折り曲げた腕が良い例だろう。材質はアルミ、表面は白色に光っている。  外径は一円硬貨ほど。二本のパイプで支えるとはいえ、大人一人の体重を保持するにはやや心細い印象を受けた。 「パイプ外径の数値を書き換えて、っと」  知佳がキーボードで数字を入力するとすぐさまにパイプは五百円玉ほどの大きさに変化する。これならば操縦者も安心してステップを踏みしめられるだろう。 「図面を開いて更新かければ、CADの数値を参照するから……」  更新ボタンをクリックすると図面上のパイプは形状と寸法値をCADのそれにならう。  図面は、CADとは別に準備しなければならない加工者への作業依頼書のようなものだ。加工者は紙面に表現された二次元の投影図から三次元的に完成品をイメージし実物を製作する。技術レベルの低い図面は加工者に余分な手間を取らせるため、設計者は分かりやすい図面作成を心がけなければならない。それゆえに技術者の練度が反映されやすく、設計図面は加工者へのプレゼントとたとえられる。  図面更新を終えた知佳はぐんと背筋を伸ばす。ここまでくれば仕事はほぼほぼ終わったも同然だ。問題ないことを承知しているが念のためにステップ部品とパイプ部品の取り合いを確認しておく。 「羽田さんが取り合いを見ておけと言っていたし一応ね」  取り合い。一般的には、一つのものを奪い合うことの意。しかし機械メーカーでの「取り合い」は意味するところが広く、「部品同士が組立しやすいか」や「部品に削り代があるか」と様々で、今回の場合は「部品間の寸法関係が適切か」を示している。  ステップの穴にパイプをあてがう。寸法関係も良好で組立性も問題なさそうだ。知佳は大きく息を吐き一仕事終えたことを自覚する。時計を見やると羽田が会議のために立ち去ってから三十分と経過しておらず、自分を褒めたい気持ちになった。  思いの外に仕事が順調に進んだ知佳は手持ち無沙汰になった。メールボックスを覗いてみるが、配属されてから日の浅い知佳のもとにメールが送信されることはまれだ。新規メールなんてもちろん届いていない。社内インフォメーションだってすっかり目を通してしまった。知佳はそっとブラウザを閉じる。  知佳は設計の完了したステップ部品をくるくると回転させる。くるくる、くるくる。肉抜きやスパイクの突起が現れては消える。 「ステップにも穴はあるんだよなぁ」知佳のつぶやきは誰の鼓膜にも届くこと無く減衰する。  ステップ部品の隣にパイプ部品を一本出現させる。三次元の広大な空間に部品が二人きり。パイプ部品を手に取ると、黙って動かないステップ部品の穴へそっと近づける。小蟻が這うくらいの速度で距離を詰めていくパイプ部品。二人の目線が交差したころは体温を感じないほど隔たれていたが、こうして接近してみればまばたきによる微かな振動だって金属製の冷たい肌をもってしても簡単に読み取れてしまう。  パイプの先端がステップの穴に触れる。外径と穴の大きさは五百円玉のそれ。しかし、よく目を凝らすとパイプ外径の方がやや小さくその差は一ミリにも満たない微少なものであったが、ステップにとっては幸いだった。  アルミ製ステップの鋭利な先端が樹脂ステップの柔らかな窪みに刺さる。  ステップは口をつぐんだまま微かに震える。  キツい。穴のほうがやや大きく設計されているとはいえ、その差はわずかで髪の毛一本ほど。  穴を押し広げながら侵入を試みるアルミパイプ。ミリミリと音を立てながら奥へ奥へと進もうとするが、ステップの「ダメっ……」という悲痛な叫び声に、パイプは身じろぎし思わず後退した。  ふっと頭に血が上り激高するパイプ。 「どうして途中で止めるんだ。嫌になっちまったのか? 怖じ気づいちまったのか? もう先端の数ミリはお前の味を覚えちまった。いまさら取り返しなんてつかないぞ。それにこれは仕事だ。そうだ、『仕事』だぞ。お前だってわかってるだろう。これは俺たちが首を縦に振ろうが横に振ろうが、やらなくっちゃならないことだ」 「違う、そうじゃないんだ……。嫌なわけじゃない。僕だって黙って待ってばかりいたけれど、嫌なわけがないんだ」  じゃあなんだってダメだなんて言うんだ。パイプは口からこぼれそうになったのを、すんでのところで踏みとどまった。パイプはステップの考えを理解したのだ。  ステップが手にしたのはグリスだった。軟膏のようなもので、部品間のすべりを滑らかにするゼリー状の代物。 「僕はいいんだ傷ついたって。樹脂は跡が残りやすいからその前提で設計されているし、原料費が安いからいざってときは簡単に代替が用意できる」  お前の代わりなんていない。のど元まで出かかるがどうしようもない恥じらいがパイプの発言を足止めてしまう。 「僕には代わりがいる。でもパイプ、君は違う。原料費も安くはないし、加工に時間も手間もかかってるんだ。僕の穴に無理矢理ねじ込もうとしてみろ、君がこじてしまうぞ!」  金属製の部品は樹脂に比べて格段に硬いため傷が生じづらい。それはつまり、一度入ってしまった傷は元に戻りづらいということだ。金属表面の傷は他部品への挿入が不可能になるため御法度である。潤滑もなしにパイプを押し込むことはステップとの組立が叶わないばかりか、パイプ表面に傷を生じさせる行為。  傷物になったパイプはどのような扱いをされるか。おそらくペーパーで表面を無理にやすられて、どうにかこうにか使用できる状態まで犯されるだろう。不必要に弄ばれたパイプの自尊心は一体どうなってしまうか、ステップは容易に想像できた。  使用されればまだいいほうだ。修復不可能なまでに深刻な損傷があれば、急いで代わりのパイプを発注することになる。たくさんの人間が慌てふためき後処理を余儀なくされる。田植機の発送だって遅延する。パイプ自身が捨てられるだけではない、自分の無茶のせいで大勢に迷惑をかけるのだ。パイプの気高き精神がどれだけの痛みを覚えるか。ステップは、パイプが受ける屈辱を思うと胸が張り裂けそうになった。 「ステップ、お前……」 「さあ、グリスを塗って。大きな声では言えないけど僕だって待ち遠しいんだ。これ以上じらさないでくれ」  パイプの先端に透き通った檸檬色の液体が塗布される。アルミ特有の銀色に光輝く白色と半透明の檸檬が重なってベールを彷彿とさせる。 「綺麗だ」ステップの心底からこぼれでた言葉に、パイプは頬を染める。 「ごめん。これまで散々に待たせちまったな。もう、離さないから」ステップの口元に接近するパイプ。いざ組立、とそのときだった。 「私のこと、蚊帳の外にほっぽり出して二人で楽しそうですね。混ぜてくださいよ」  二人きりの世界に突如として現れたそれはパイプと姿が瓜二つ。文字通り鏡映しの存在。ステップに挿入される「もう一人のパイプ」であった。 「まさか私のことを忘れたなんて言わないですよねぇ。ステップくん」 「君は、もう一人のパイプ!」  ステップには両端に穴がある。二つの穴がある。 「いまさらのこのこやって来たって、俺たちの間に割り込めるなんて考えが甘いぜ」 「それはどうでしょうねえ」  もう一人のパイプが口角を上げて下卑た笑みを浮かべる。勢いもう一人のパイプはステップへ駆け寄る。 「いきなり挿入しようたって土台、無理ってもんだぜ。どうせ俺たちの話を盗み聞いてただろ。このグリスをしっかり塗らなくちゃいくらお前だって簡単には……」  言い終わらないうちに、パイプはその光景に驚愕する。 「そ、そんな」  すぽっ。子気味良い音と共に、もう一人のパイプの先端がステップの穴へいとも簡単に収まる。 「なんてことだ! こんなに簡単に僕の中に入っちゃうなんて。グリスも塗布していないのに」 「ククク。やっぱり体は正直だ。考えてもみてください。両方のパイプにグリスを塗ったうえ、力を加えて圧入しないとならないような部品は組立性だけでなくメンテナンス性も悪い。片方の穴は初めからいっそう大きく設計しておき、力を加えずとも抜き差しできるよう準備しておく。これが上質な設計ってやつですよ」 「ああ、初めての組立はパイプとだって心に決めていた。それがこんなことに」  屈辱に顔をゆがませるステップ。 「見てられねぇ……。お前の汚ねえ先っちょを早いとこ抜きやがれ!」 「私とステップくんを取り合おうって腹ですか? いけません、それは誤解です」 「なんだって?」  パイプは怒りと悲しみを綯い交ぜ自分でも感情の色が分からないくらいに動揺していた。 「話を盗み聞いていたとおっしゃいましたね。ええ、その通り。二人の会話はいっぺんの抜けなく拝聴していました。あなた自分で言っていたじゃありませんか。『これは仕事だ』って。そうです仕事なんですよ。分かるでしょう? 私と対の存在であるパイプ、あなたなら」  パイプは驚いたかと思えばそれからガタガタと震えだし、寒そうに自分を抱きしめたままぼそぼそと何かをつぶやいている。 「パイプ、大丈夫か。しっかりするんだっ。僕は平気だ。早いとこ、こいつから逃げ出すからさ。待っててよ」  健気ですねぇ。もう一人のパイプが心中で底無い愉悦に溺れ、涎を零した。 「ねえパイプ? 返事をしてよ」ステップは叫ぶがパイプは答えようとしない。  俯きごにょごにょと口走っていたパイプは、目を見開きそれから一筋の涙を流した。 「ステップごめん。俺、もう……。自分を止められそうに、ない」  言うやいなやパイプはフラフラとした足取りでステップへ歩み寄ると、黄金に輝く尖端をステップへ力いっぱい突き刺した。嵌め合い交差は、一度圧入すればちょっとやそっとじゃ外せない中間嵌め設計。ステップの柔な洞穴がぐにゅりと拡がる。 「あがっ。どうじで」  ステップが声にならない声を上げて苦痛にもだえる。 「そうです、もう一人のパイプ。自分に正直になりましょう。これが完璧な組立。完璧な仕事。私とあなたで前後からの挿入。美しい。どうですか、ステップくん。二穴同時に犯される気分は?」  もう一人のパイプの高笑いがCADの広大な空間に響いた。  ふう、こんなところか。知佳は額をぬぐい、妄想から帰還する。ときおり止めどないほどに幻影の世界へトリップしてしまうのは知佳の悪い癖であった。 「山野さん、どうだった? 取り合い」  会議を終えた羽田が心配そうに知佳へ尋ねる。 「もちろん完璧です」内心では最高でしたと舌を出す知佳。 「じゃあ図面を加工業者に送って急ぎで製作してもらおう。さっきの会議で決まったんだけど、今回の設計変更をすべての機種に水平展開することになってさ。いろいろと試験しなくちゃいけなくなったんだよ。忙しくなるよー」  羽田が文字通り肩を回しやる気に満ちた明るい顔をみせる。しばらくは残業かなと知佳は苦笑い。  それから数日先のこと。知佳の設計変更にミスが見つかる。  外径寸法はしっかりと修正していたがそれに伴う内径の変更を忘れており、常識外れに肉厚なパイプが産み落とされていた。  羽田は知佳の設計変更を盲目的に信じ、加工先へメールで送付。部品の製作者から「こんなに厚みのあるパイプは存在しませんねぇ」と半笑いで問い合わせを受けた羽田は大恥をかき、知佳は大目玉の羽田から重たい拳を落とされ、以降はすべての図面が羽田によってチェックされることになった。
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