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4
あの日の映像が、渇きが、蘇る。
人生で初めの記憶は、酷い空腹と指先が冷たくなっていく感覚だった。
視力はほとんど無くなっていて、かろうじて見えたのは藪の葉が時折揺れる影だけだ。
耳だけが多少はまともで、あの藪の向こうに幾つもの呼吸が聞こえた。鼻は詰まって役には立たないが、あれが無数にある事くらいは嗅ぎ分けられた。
私が朽ちるその刻を、奴等はあそこで待っている。
近づいてくれれば食ってやったのに、あの距離から寄ってこない。
賢い連中だった。
幸い、背後は大樹が守ってくれた。
私はこの樹に守られ、この樹に命を与えられていた。
残り少ない命を背中に預け、安らかに昇天を待っていた。
そう、あの時私は、ここで生まれた。
あの日最後に聞こえた足音は、今日も、同じ場所から聞こえてきた。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
奴は膝をつく私の横を通り過ぎ、割れた大木の間に手を差し込んだ。
白い手が引き抜かれると、真っ黒なベリーが大量に実った房を引き上げた。
やっぱり、仕込み。
ブラックベリーなど、この山では育てていない。
ネルはベリーを頬張りながら私の前に来ると、膝を折って顔を合わせてきた。
「食べる?」
俯ける私の口に、ベリーを差し出す。背けても、無理やり唇に押し込んでくる。
「ん? ん? どしたの? 食べないの? テルなのに」
うざったい手を手刀で払い落した。
「あいたぁ! こりゃ狂犬だわさぁ。あぁ、怖い。あぁ、恐ろしい」
一瞬にして青痣のできた手を、私の両脇に差し込んできた。
「でもこりゃぁ、よく育つべ? んなぁ? よく、育ったべなぁ」
あの日と同じ。
リフレイン。
それが無償に腹が立ち、重心をずらして自重をかけ、持ち上げさせないようにした。
「おっも! おっも! 筋肉ダルマになったべなぁ、テル」
どう力を入れても私を持ち上げられないネルは、「きぃぃいい」っと癇癪を起して去って行った。
「もう知らん! 馬鹿! 阿呆! 親知らず!」
お前も親知らずだろうが、糞豚。
ネルが歩き始めた時、やはり、同じタイミングで奴の足音がした。
二人はすれ違い際、簡単な言葉を交わした。
「ほらよ。交代」
ベリーの房をベルに渡した。
「いいの?」
「面倒くさい。帰る!」
「あっそ」
ネルは勢いよく走り去った。
ベルは嘆息して私の横へ来ると、割れた大木を眺め、テルの手を取った。
「もう少しないか、探してみよ? ブラックベリー嫌いなのよ。それと、ここ。良くないよ」
ベリーの房を渡され、引かれるがままに歩いた。
確かに、ここは心地が悪い。
私の背を担った唯一の安定は、事も無く瓦解した。
いつかはそのような日も来るのだろうけど、落雷など単なる確率論なのだろうけど、失うというのは気分が悪い。
また、別を見つけないといけないから。
ベルと山を歩いた。
彼女は悉くベリーの在処を知っているようで、的確に自生場所へ向かっていく。
でも、無理だ。私は、ここの管理者。どれだけの量がどこにあったのかを覚えている。
見つかったベリーは全て灰となっていたが、それを到着よりも前から予想できていた。
ベルはどこまでも探す。無駄なのに。
時間が刻一刻と迫るにつれ、私は緊張を始めていた。
今、私の手にベリーがある。
無論、これはネルの仕込みなのだから輸入品だが、「自生限定」などというルールは設定していない。
つまり、私の勝ちだ。
ベルの背後で、見えないように口元を尖らせた。
その時だった。
「ほうら、私の勝ち」
ベルは口でも喉でもない、腹の底? 聞いた事のない場所から轟とした声を出したのだ。
心臓が唸った。
何?
私、今、見られたの?
いや、違う。前方に、山小屋が見えた。
武器庫にしていた野営地。壁のザラ板は崩れていたが、内部を鉄板で防弾仕様にしている為、かろうじて建っていた。
時間は、後三分もある。
あぁ、駄目だ。
あそこは、駄目だ。
小屋の扉を開けた瞬間、私は察した。
負けた。
床には何も無い。でも、武器庫の中から匂いがする。
私でなくとも気づく程、大量のベリーの匂い。
初めから、計算されていた。私の愚案を嘲笑する為にわざと時間を潰し、ネルのベリーを渡しやがった。
かっと頭が赤くなった。
足でも折ってしまえば、私の勝ちじゃないか?
ベルが一歩でも入室したのならば、その瞬間に拘束しようと身構えた。
だが、ベルは動かなかった。
頃合いを見て、腕時計を見た。
「あぁ、時間だね。テルの勝ち」
意味が分からない。
「ネルは食べてたから、一応ベリーは獲得って事ね。じゃ、私が、テルにあげなきゃね。お金」
何を言っている?
意味が分からない。
呆然としていると、雲が集まり闇を落とした。
湿気の匂いが風に運ばれてくる。
夕立か。
瞬く間に豪雨がやってきて、とりあえず、私達は山小屋に退散した。
私は座り込み、ベリーを抱きしめていた。
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