・宿借。

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――その男は、数日前、突然俺の目の前に姿を現した。 あの日、俺がいつものように朝食の食パンを(かじ)りながら新聞を読んでいると、窓の外から視線を感じた。 顔を向けると、その男が、じいっと俺のことを見ていたのだ。 「……なあ、おい。外を見てみろよ。今日も、すごく良い天気だぞ」 『確認』のため、妻に声をかけると、妻は台所に立ちながら顔を動かし、「そうだねえ。あとでお買い物にでも行ってこようかな」とのんびり言うだけだった。 窓の外には相変わらずその男がいて――妻には視えていないということを確かめ、俺は、「こいつは『ヒト』ではない」と確信する。 以降、(こいつ)が家の周りをうろうろしているのは知っていたが、こんなふうに『家の中』に入ってきたのは今日が初めてだった。 声を聞き、言葉を交わすのも、無論今が初めてである。 「……けれど。少し、『妙』ですね」 「何?」 「あなたは、あまり、動じていない」 かすれた声で、男が言う。おそらく、幽霊(じぶん)の姿を見てもあまり驚いていない俺に対し、疑問を持ったのだろう。 ――確かに俺は今、この男を見ても、そこまで取り乱してはいなかった。 だからこそ、こうして面と向かって会話をし、それが成立しているのだ。 もちろん、『まったく動じていない』と言ったら、語弊が生じてしまう。心の奥では狼狽していたし、気が気ではなかった。 しかし、それでも俺が、その感情を表に出さずに押し殺すことが出来るのは――言うまでもなく、『慣れ』というもののお陰に他ならない。 「……俺は、今よりもう少し若かった頃、本当に、転々としていたんだ。住む場所も、仕事も。転々、転々、そうやって毎日を過ごしていた。 本当にいろいろな場所に行って、いろいろなものを見た。……だから俺は、多分あんたが思っている以上に、『いろいろな経験』をしているんだよ」 「……。では、その経験の中で、『そういうもの』を見たことも、少なくはない、と?」 「まあ、そういうことだ」 言いながら、俺はヤドカリみたいだな、と思った。 ――『宿借』。 もしくは『寄居虫』と書いて、『ヤドカリ』と読む。 今は所帯を持ち、腰を落ち着かせたが、あの頃は本当に、生活環境をころころと変えていた。 いろいろなことに興味を持ち、いろいろなことをやった。 旅をするように各地を巡り、文字通り宿を借りたり、女の家に寄生し、居ついたこともあった。 今の生活にはとても満足しているが――それでも、時折こうして昔のことを思い出し、『そういった生活を今でも続けていたら、どうなっていただろうか』と考えることも少なくはない。 それはそれで、きっと楽しかっただろう、と。 「……うらやましいですね」 男が言う。「私には、そういった『楽しかった』『幸せだった』という時が、時期が、あまりにもなかったものですから」
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