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一瞬、風が吹いたのかと思った。
が、という音と共に、男の両手が、指が、俺の首に食い込む。
その苦しさのあまり、意識が遠のきそうになるが――それでも、男の声は、はっきりと俺の耳に届いた。
「……あなたは、『憑依』という言葉を知っていますか?
今、私がここであなたを殺せば、あなたの魂はこの身体から抜け、そしてこの身体は、ただの器になる。
……そして、そこに『私』が入り込めば――私はその瞬間から、『あなた』の全てを手に入れることが出来るんです。
そう、それこそ――ヤドカリが、新たな貝を手に入れるように」
ぎりぎりと、男の力が強くなっていく。
俺は必死に抵抗し、歯を食いしばり、唇を、動かした。
「……ふざけるな……」と。
「……俺には……大事な、妻がいる。3つになったばかりの、かわいい、息子もいる。
……それを……その幸せを、あんたに渡すわけには、いかない。
あんたのこと、気の毒とは思うが……それでも、俺には、関係ない……。
この身体は、絶対に渡さない……。
その、手を、放せ……」
――その時。
その言葉を口にした時。
俺の心臓が、どくん、と跳ねた。
「……っ……?」
今のはなんだ、と、目を動かす。
今、確かに、脳が何かに刺させたような痛みを感じた。
しかし、原因が、分からない。……まさか、この男が、今、何かしたのか――?
「お――」
身体が、硬直する。
先ほどまで、確かに目の前にいたはずの男の姿がなくなっており――そのかわりに現れたのは――紛れもなく、『俺』だったのだ。
「――お……れ……?」
口の端から、泡が漏れ出る。
俺が俺に首を絞められている、というこの状況に意識がついていけなくなり、頭が、混乱する。
おそらくこれは、この状況下における幻か何かなのだろうが――どうして、こんな幻覚が、今、目の前に現れるのだ――?
「……ア」
ごぼ、と、口の中から、何かが溢れてくる。
その瞬間、『昔の記憶』が、鮮明によみがえった。
――俺には……大事な、妻がいる。3つになったばかりの、かわいい、息子もいる。
……それを……その幸せを、あんたに渡すわけには、いかない。
……そう。
その言葉は、かつて、俺自身が聞いた言葉だった。
……そうか。
『今の生活』に慣れてしまって、すっかり忘れてしまっていたが、俺も、昔は、『この男』と同じだったのだ。
こうして……見ず知らずの男の首を絞めて……命を奪い……その男に、乗り移――
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