・宿借。

1/4
前へ
/5ページ
次へ

・宿借。

息をゆっくりと吐き出して、ノートパソコンを閉じる。椅子に深く腰をかけながら眼鏡を外し、手元のスマートフォンに目を向けると、時刻はすでに、午前0時を回っていた。 近頃は家に仕事を持ち帰ることも多くなっていたが、今日のノルマがひとまず無事終わったことに、安堵する。 この時間なので、妻も息子もとっくに眠ってしまっているが、俺もこうしてはいられない。明日の朝も早いのだ。 とりあえず、ビールでも飲んで、さっさと寝てしまおう。――そう思い、リビングに顔を出した、その時だった。 思わず、「う」と呻き声を上げてしまう。 テーブルの、上。 そこに、真っ黒い着物を着た男がひとり、微動だにせず立っていたのだ。 「…………」 唾を飲み込む。 男は痩身で、髪は薄く、おそらく俺より一回り以上は年上だろう。 辺りは薄暗く、表情は良く分からなかったが、その顔は明らかに、俺のことを見ていた。 額に、うっすらと汗が浮かぶ。 唇を噛みながら喉を鳴らし、息を殺し、何事もなかったように部屋の電気をつけ、冷蔵庫に手をかける。 ――と。 その瞬間、男の頭がぶわっと動き、ねじるようにして、なおも俺に顔を向けてきた。 その首は、すでに物理法則を無視した角度になっており、めぎ、めぎ、という、聞いたこともないような音を立てている。 それでも、俺は――椅子に座り、冷えた缶ビールのプルタブを起こし、口をつけた。 「……いい加減にしてくれないか」 泡を舌の上で転がしながら、ゆっくりと顔を上げる。 すると、()りの深いその顔が、静かに瞬きをし、「やはり」と声を上げた。 「……やはり、あなたには、私の姿が視えている」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加