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疾風の如く駆け抜ける小童あり。ただ、小童とするには背が高く、野伏せりの集団に居たとしても、違和感がないだろう。彼を小童とする所以は、幼い顔にあった。前髪を下ろし、腕白な目がキラキラしている。褌一つに破れた単を羽織り、柴を背負っていた。裾が風を受け、野山を走って鍛えた体躯が見えていた。裸足のまま走る姿は、まるで狼のようで、敏捷で獰猛な小童だった。
「弁助ちゃん、何を慌てて走っとるん?」
弁助の後に続くのは、やはり同じ歳くらいの小童で、弁助と同じように山で柴を集めて背負っている。色白で細身の彼は、息が上がっていた。
「おう、又やん、庄屋ん家に武芸者が泊まってっから見に行くんじゃ。それより、もう息があがっとんのか? そんなこっちゃ、戦さ場で先駆けできんぞ!」
弁助の追走者は、息を切らしながらも応える。
「先駆けって、馬に乗れる身分にならにゃよう言わんぞ。おいたちは雑兵じゃ」
「又やんは夢がないのう」
弁助に応える声は無かった。又やんこと又八は、とうに倒れ込んでいた。
弁助は、柔な友人を置き去りにして山を駆け下りる。
三方を山に囲まれた窪地に町が存在した。川沿いに田畑が広がり集落を取り囲んでいる。そこは、播磨ノ国北部の村だった。
弁助は、畔道をひた走り、立派な橋を渡り、白い土塀と生活用水路を横目に見ながら茅葺きの大きな屋敷へ来た。水で野菜を洗う女に声を掛ける。
「お通は居っか?」
女は、ちょっとばかり顔を上げ、相手を確認した。髪を結い上げた女は、胸元を緩く合わせているので、白い谷間が見えていた。赤い半衿からも、色香が漂う。彼女は朱美と言い、屋敷の使用人だった。
「居るよ。弁助、旦那様に見つからねぇようになぁ」
「おお、ありがとよ」
弁助が訪ねたのは、この地方の大庄屋の家で、農家とは言え地域の権力者でもあった。時は戦国時代が終わり、安土桃山時代に入っていたが、それは後の世の区分であって、まだまだ戦国の不安定な時世が残っている。庄屋は、領主への上納、百姓の取り纏めや差配、更には治安維持すら任される立場にある。この当時の農民は、戦に駆り出される事が多く、武器を所持している者も多かった。太閤秀吉殿下の刀狩りでかなりの農民が武装解除させられたが、この所の不穏な情勢を受け、農民兵の需要も高まっていた上、朝鮮出兵で領主が異国に出払い、治安の悪化もあった。
弁助は屋敷の裏手に回ると、裏門から入る。鶏を追い飛ばし、台所の土間に柴を置いた。
「お〜い、弁助さまが柴を取って来てやったぞ。茶菓子でも出しやがれ」
戯けて声を掛けると、奥から返事があった。
「はいぃぃ、梅干しでもしんぜよう」
芝居がかった鈴の様な声が響く。登場したのは、オカッパ頭の童だった。切り揃えた前髪の下で愛嬌のある瞳が輝く。口角が上がった所は見る者を笑顔にさせる愛玩人形の様だった。
「お通、うるせぇのは留守か?」
「おお、有馬喜兵衛と一緒に神社へ行ってる。客人の武芸者じゃ」
お通は、弁助に竹の子の皮を三角に折った物を渡す。
「おいは武芸者を見に来たんじゃ。神社へ行くっぞ」
弁助とお通は、連れ立って屋敷を出た。
二人で竹の子の皮を啜りながら歩く。中には梅干しが仕込まれていて、酸っぱいおやつになっていた。
「又八はどうしたんじゃ?」
お通が、急に思い出したように尋ねた。
「遅いから置いて来た」
お通は、弁助を意味ありげに見つめ、意見を述べた。
「弁助はいけずじゃのう」
お通の言葉を、弁助は理解できない。
お通の父、庄屋の善右衛門は、八幡神社を借り受け、有馬喜兵衛を招いて農民に武芸の手ほどきをさせていた。当時は村ごとの自警も重要で、格闘の鍛錬をする事も多かった。旅の武芸者の生業は、こうした方法で成り立っている。
二人が神社に着くと、境内は大層な人手で、祭りのようだった。有馬喜兵衛への関心の高さもあるのだろう。
弁助は、まずハッタリが鼻についた。三尺の杉板に「日ノ本一の兵法家、天下無双の兵法術者、新当流 有馬喜兵衛」と書かれて立て掛けてある。
弁助の父、新免無二は武芸者で、足利義昭より「日下無双兵法術者」の号を賜っていた。無双とは並び立たない事を意味する。何人も居ては可笑しい筈だが、当時は全国に無双は何人も存在した。
弁助は、今度は有馬喜兵衛本人に目を向ける。
喜兵衛は、神社の本堂を背にして立って居た。両側の狛犬が、彼を讃美する様に控えている。田舎の兵法家は、金色の陣羽織を羽織り、朱の着物に白い袴を穿いていたので、蝋燭みたいに目立つ。草履の鼻緒も白で、お洒落ではあった。ただ、顔はお洒落とは程遠い。鼻は大胡座をかき、目はギョロリとしている。八の字髭の下に有る口は完全にへの字だった。まぁ、兵法家らしくはある。
喜兵衛の前には、村人が木刀を持って対峙している。その数は三十人ほどだった。その中には、お通の父の善右衛門も居た。一回の教授人数が決まっているのだろう。
さて、肝心の教授だが、喜兵衛が「えい」と声を掛けると、村人も「えい」と応じて木刀を振る。これの繰り返しだった。弁助はちょっとバカらしく感じていた。そんな時、尻に蹴りが飛んで来た。隣のお通が生っ白い足を飛ばして来たのだ。当然、弁助は抗議する。
「なにするんじゃ」
お通は澄まして応えた。
「弁助が喜兵衛を睨んでおるからじゃ。あんな大男に餓鬼が勝てる訳なかろう?」
ケロケロと笑うお通を、弁助は飽きれて見ていた。
「おいがあんなでかい奴に挑む訳がなかろう」
そう、弁助も小童の割に大きいが、有馬喜兵衛はそれを上回っている。しかも、諸国を武者修行しているのだ。弁助に勝ち目はないだろう。
新免無二
有馬喜兵衛見学を終えた弁助は、お通と別れ、一人歩きながら考えていた。同じ武芸者として、父の無二と喜兵衛では全く違う。喜兵衛も無二も恐い顔をしているが、喜兵衛は世渡り上手に見えた。まず、衣装が違う。喜兵衛は色鮮やかな派手な衣装を着て、世間の注目を浴びるが、無二は鼠みたいな色の麻織物と革袴を好み、着替えるのも嫌いだった。風呂に入るのも億劫がる。目立つ事も嫌がるから、当然、派手な宣伝用の看板など立てないだろう。とても剣術指南で食える男ではない。
ただ、無二は手先が器用で論理的思考ができた。それは、弁助にも受け継がれている。剣術指南が駄目なら何で食べているのかと言うと、無二の主な生業は粉挽きだった。
彼は、一人で水車小屋を完成させ、商人や農民から使用料を取って銭を稼いでいた。無二の自作水車小屋は、故障もせずに効率が良いと評判で、親子二人で暮らすのに充分な稼ぎを提供してくれた。
弁助が喜兵衛と無二を比較しながら歩いていると、川沿いに一軒家が見えてきた。茅葺き屋根の家は、水車小屋の隣にある。
弁助が中庭に入ると、無二は縁側で楊枝を作っていた。夕暮れ時、武芸者崩れの影が長く伸びる。それは、地味な格好と相まって、酷く寂しい者に見えた。
「親父、いま帰ったぞ」
弁助は、取り敢えず挨拶をしてみる。
「そうか、有馬喜兵衛はどうだった?」
無二の言葉に弁助が驚いていると、無二は口の端を歪めて応える。
「お前の行動など容易く読めずに兵法家と言えるか? 驚くでない。愚か者の小童め」
弁助は、無二の言葉に腹を立てたが、どうにも反論しようがない。忌々しく思い、つい悪口になる。
「有馬喜兵衛は立派な兵法家じゃ。縁側で楊枝を削る暇人とは違うんじゃ!」
無二は弁助の言葉を聞くと、目をカッと見開いた。
「何だと!」
無二は、息子に向かって楊枝を削っていた小刀を投げた。弁助は、片足を上げ、犬が小便をするような格好で避けた。
「親父の兵法は小童にも当たらぬか? ちんちんちろちろ生兵法」
無二は真っ赤になって怒り、木刀を持って中庭へ降りる。裸足のままだった。
弁助は臆する事なく待ち受け、無二を睨んでいた。
無二は、我が子に小刀を投げつける様な男だが、木刀を振り下ろす事は無かった。いや、彼女の制止が無ければ、もしかするとやっていたかも知れない。縁側から、親子に呼びかける声があったのだ。
「親子でやっとうの稽古ですか? よろしいですね」
縁側には、庄屋の家で下働きをしていた朱美の姿があった。朱美は、この家に間借りしている。本人が四六時中束縛されるのを嫌い、庄屋の家には通いで務めていた。
朱美は、親子の修羅場を目にしても微笑んでいる。そんな所は肝が座って居る。彼女が何処から来て何者なのか、誰も知らない。無二は素性に無頓着なので、何も聴かずに間借りさせていた。借料は家事との交換で無料にしている。女手のない新免家では、貴重な存在だった。もっとも、村では無二と朱美を夫婦として見ている。二人にもその方が都合が良かった。
「さぁ、ご飯にしますよ。無二さんも弁助も機嫌を直して食べましょう。不機嫌だと上手にこなれません。武芸者は体が大事でしょ」
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