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囲炉裏を囲んで三人が座る。囲炉裏の火が鍋を温め、煤が天井に上がる。上がった煤は茅葺きの素材であるススキやヨシの中に潜む虫や動物を避けさせ、更に屋根を支える梁をコーティングし、建材を強くする。また、煙が外に出るように通気性もよく作られている。家が、人と一緒に生きている。それが風土に根差した家屋なのであろう。
さて、新免家の食事だが、今晩は玄米と雑穀と野菜を煮込んだ鉄鍋が囲炉裏の火の上に下がっていた。玄米は白米より栄養素が豊富で、これだけで活力を得られた。時は、天下を太閤殿下が治めていたが、太平が続いた江戸時代と違ってこの頃は、まだ農民も力を持っていた。兵士として駆り出される事もあるので、領主も気を使う部分があった。雑穀ばかりでは不満も募ろう。
弁助は、玄米をガツガツと噛み砕きながら考えていた。それは、同居人の朱美の事だった。
彼女は、淡い黄色の小袖に赤い半衿をしている。目鼻立ちは麗しく、唇は厚ぼったい。白い肌はしっとりしていて、搗き立ての餅のようだった。
以前に弁助は、阿国かぶきの一座を観た事が有った。まぁ、本物を真似た亜流の一座だろうが、神社に舞台を立て、舞を披露した。踊り手の巫女はまるで天女の様な女たちで、官能的でもあり、多くの男は勿論、女も魅了された。皆、農作業とは縁のない異次元的な美しさを感じたのだろう。朱美は、その時の巫女を連想させる女だった。
弁助の疑問は、それほど色っぽい朱美に対する父の態度だった。無二は朱美の色香に興味を示さない。弁助などは、機会があれば見つめている。ここで、一つの疑惑が湧く。それは、無二が男色家なのではないか? と言う事だった。勿論、弁助が生まれた以上、最初は女好きなのだろうが、変わってしまったのかも知れない。そう考えると、優男の又八を見る目が怪しい。
「又やんの穴はおいが守らにゃならんな」弁助がそう思った時、勝手口を叩く音がした。
「ごめんください」
声から判断して、訪問者は又八だった。弁助は箸と木製の茶碗を置き、対応に出る。
土間に降り、勝手口を開けると、又八が青い顔で立っていた。まぁ、もう夕暮れ時なので、はっきり青とは判断できないが、又八の表情からそう感じていた。
「又やん、どうした」
又八は内々で話があるのか、弁助の手を握って外に連れ出そうとする。弁助は、男とは思えないふっくらとした手で引っ張られ、庭に出た。湿った感触にゾクゾクする。
「どうした又やん、誰かに虐められたんか?」
弁助が笑って聞くと、又八はムキになって反論する。
「違うわい、弁助ちゃんが心配なんじゃ!」
「なして心配なんじゃ?」
弁助は心当たりがないので、呑気に訊ねる。ところが、又八の方は深刻なようで、深いため息をついた。
「お通から話は聴いたぞ。有馬喜兵衛を睨んでいたそうじゃな。弁助ちゃんはなして危ない事が好きなんじゃ。勝てる相手ではないじゃろ! 前に熊に喰われかけたのを忘れたか?」
又八は、真剣な顔で怒っている。弁助を心配しすぎて声が裏返った。足も小刻みに震えている。
又八の言う熊の話は、山で柴刈りをした時に大きな熊の足跡を見つけ、弁助が追跡しようと提案した。又八は止めたが、弁助は言う事を聞かない。仕方なく一緒に行くと、案の定、足跡が新しくなって行く。弁助は、又八が怖気づくのも構わず、どんどん先へ進む。そして、草むらから黒い塊が飛び出した。
「熊に待ち伏せされとる」
弁助が、緊張感のない声で呟いた。勿論、熊が怖くない訳ではないだろう。彼の神経は常人では測れない所を通っているのだ。
一方、又八は、腰を抜かしてしまった。弁助は、友のために引く訳には行かなかった。帯に挿した木刀を抜くと、上段に構える。足を肩幅に開き、地固めをした。
「いやぁい!」
空を突き抜ける気合いが森を駆け抜ける。熊に闘気をぶつける。すると、熊は弁助の姿に恐怖を感じたのか? 逃げ去った。
又八は、その時の恐怖が甦ったのか泣き顔になる。弁助は、又八に泣かれると弱い。しかも、彼は弁助の厚い胸に顔を付けて泣くのだ。これは、女に泣かれる以上に困ってしまう。
弁助は、又八を胸で泣かせながら悪戯を思い付いた。
「又やん、おいは有馬喜兵衛を許せんのじゃ! 親父と同じ、日の下無双を堂々と高札に掲げている。親父は足利様のお墨付きじゃぞ。おいは悔しゅうて悔しゅうて堪らんのじゃ! この気持ち、解ってくれるか?」
又八は顔を上げると弁助を見つめた。唇が近い。
「弁助ちゃんの気持ちは判るよ。だけど、おいのために堪えてな。お願いだから堪えてな」
弁助は、又八の必死な様子に笑いを堪えるのが大変だった。
「よし、おいは又やんのために堪えよう。ならば、又やんはおいのために何をしてくれるんじゃ?」
又八は黙ってしまう。これは予想外の展開だった。弁助としては、何か美味しい物でもご馳走してくれるのを期待していた。なのに、又八は沈黙している。そして、幽霊みたいに儚く来た道を帰る。
弁助は、又八の後ろ姿を見送りながら、釈然としない気持ちを抱えていた。
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