小童、宮本武蔵

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「弁助、勇ましいな。まぁ、そう気負うな。お前が喜兵衛を見切る事が出来たら、戦えばよい。もし見切る事ができなんだら、ワシが戦う」  弁助は、無二の意外な申し出に戸惑っていた。毒気を抜かれ、呆けた顔になる。  無二は、縁側の自分の隣を叩き、弁助に座る事を促す。 「ワシは今までお前に兵法を教えて来なかった。だが、今こそ授けるぞ」  無二は、基本的に笑わない男だったが、我が子が仕合を受けるまでに成長した事が嬉しかったのだろう。笑顔を見せていた。 「仕合に勝つには、三つの知がいる。一つは、己れを知ることだ。二つ目は相手を知ることだ。三つ目は策を知ることだ。己れを知るとは、力量、技量を知る事だ。相手を知るとは、敵の力量、技量を知る事だ。己れと敵の力量、技量を比べ、優劣を冷静に判断せねば仕合には勝てんぞ」  弁助は無二の教えを理解した。つまり、客観的に判断し、行動しろと言う事だろう。 「更に、策を知らねばならぬ。それには理が要る。地の理と心の理だ。地の理とは、対決場所を知る事だ。広さ、形、凹凸、土壌の質、敵地か否か。等だな。心の理とは、己れの心持ちを整え、相手の心持ちを乱す事だ。例えば、いま喜兵衛はお前と対戦するものだと決めて掛かっている。だが、当日になってワシが出向いたらどうであろう?」  弁助は、仕合当日の様子を想像してみた。喜兵衛は、小童が相手だと余裕を持っているだろう。そこへ互角か互角以上の無二が現れたら、きっと顔面蒼白になる。しかも、対戦を断る訳にも行くまい。 「喜兵衛は腰を抜かすじゃろな」  弁助が元気よく答えると、無二は頷いた。 「まぁ、よく相手を見切る事だ。場合によっては逃げると言うのも選択すべきだし、恥でもない」  弁助は、無二の言葉に希望が持てた。彼は、先ずは喜兵衛を知る事から始める。その前に、又八に問い質す必要があった。喜兵衛の高札に落書きしたのが彼とは限らない。ちょうど又八の実家の旅籠に楊枝を納める都合も有ったので、弁助は出かけて行った。  田園風景を過ぎ、橋を渡る。川を越えると宿場町の様相を呈していて、賑やかになる。田舎と違って蔵造りの家が並んでいた。  川沿いにある一軒の家が、旅籠を営む又八の家だった。女将の杉はとても艶っぽい人で、旅籠の主人である又七が京から連れて来たらしい。又八の父である又七は、既に他界している。  弁助は川沿いの裏口へ回ると、勝手口から入る。香ばしい匂いが胃袋を刺激する。 「弁助ちゃん、ちょうど良い所に来たね。今さ、知り合いから山女を貰って焼いている所さ。食べるだろ?」  杉が囲炉裏から弁助に声をかける。深緑色の小袖に黄色の半衿が映える。杉は又八に似てもち肌だった。いや、又八の方が杉に似ているのか? とにかく弁助好みだった。弁助は母を知らず、又八は父を知らない。お互いに足りぬ所を補う様に、弁助は杉が好きで、又八は無二に憧れていた。
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