《98》

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 何が、覚えられまして、だ。忠勝は内心で毒づいた。覚えさせられた、の間違いだろう。 「石川数正殿は」 忠勝は重ねて訊いた。 「城内の方々をよく纏められておられます。相変わらず、ご立派な大将ぶりですぞ」  数正が時折見せる冷たい眼差しに忠勝は何度か戦慄を覚えた。いつからか本当の心がよく見えなくなってしまった。昔に比べ、数正は随分と変わってしまった。以前はもっと腹の割れた男だったのだ。 「忘れ物を取りに家に戻ってきたのです」 減敬が伺い立てるように、上目遣いで言った。 「またすぐ城に行かなければなりませんので」  忠勝は無言で首を軽く縦に振った。減敬が会釈し、小走りで屋敷に入っていくが、足音はしなかった。 「なんか薄気味悪いですね、あの医者」 歩きながら小助が言った。 「終始へらへら笑いやがって。途中でぶん殴ってやろうかと思いましたよ」  減敬が岡崎で何かやろうとしているのは誰が見ても明らかだ。が、今はまだ手出しできない。減敬に手を出せば、築山御前が黙っていないだろう。築山御前は岡崎衆をどこまで掌握しているのだろうか。岡崎衆が浜松衆に槍を向けてくるような事があれば、徳川家は真っ二つに割れる。その隙を武田に衝かれれば、窮地に追い込まれる事になる。 岡崎城内の状況を把握する必要があった。最悪の事態が起こった時を想定し、築山御前から離しておくべき人物は城主信康ではなく、石川数正だ。兵を動員した時、実質的総大将は石川数正になる。忠勝は道の先に見える岡崎城の大手門を見た。数正に会い、話をしなければならない。が、忠勝が岡崎城に入る事は今叶わない。 「目立つ格好で動き過ぎなのだ、お前は」 どこからか声がした。忠勝の全身に嫌悪が走る。近い場所に石があり、老人が腰をかけている。見た目は老人だが、眼と声でわかった。服部半蔵だ。
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