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「いける口か、勝頼」
言いながら謙信が大龜の中に杯を突っ込んだ。
「嫌いではありません」
勝頼が応えると謙信は破顔した。
波々と満たされた杯が勝頼に突き出されてきた。勝頼は杯を両手で掲げ持った。ずしりとした重みが両腕に伝わってくる。こんなものを片手で猪口を扱うように持っていたのか。謙信を見た。人懐っこい笑みはどこか父信玄を彷彿とさせる。
勝頼は杯を傾け、一気に酒を流し込んだ。腹が焼けるように熱くなる。相当に強い酒のようだ。喉の所で酒が逆流しかける。勝頼は堪えた。喉に力を込め、酒を呑み続けた。呼吸6回で勝頼は杯を干した。
深い息をつく事もなく勝頼は静かに杯を前に突き出した。謙信が微かに頷き、杯を取って大龜に突っ込んだ。波々と満たした杯を謙信は二息で干し、口許を左手で拭った。
「わしには夢があった」
謙信がおもむろに言った。
「それは、生涯の宿敵、武田信玄と酒を酌み交わす事よ」
「生前父も同じ事を言っていました」
勝頼は言った。
「散々に命を削り合った上杉謙信といつの日か酒を酌み交わしてみたい、と」
「信玄とは言葉を遣わず、沢山の事を語り合った」
言いながら謙信は勝頼の顔をじっと見つめてきた。信玄の姿を捜そうとしているのかもしれない。
「誰よりもわしを知っていたのが信玄であり、信玄を誰よりも知っていたのがわしであった。信玄の死を知った時、わしは泣いた。一生分の涙が枯れるほどに泣いた」
勝頼は無言で少しだけ頭を下げた。
“わしに何かあれば謙信を頼れ”
信玄がよく言っていた言葉だ。その言葉の意味を今、知ったような気がした。
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