《98》

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 忠勝は岡崎へ頻繁に出かけるようになっていた。 身には黒縅の甲冑、頭には鹿角兜、右肩には金箔の大数珠、そして右手には蜻蛉切、一見して本多忠勝とわかる身なりで岡崎の町を練り歩いた。供は鳥居小助一人である。三河に入った瞬間にいつも気を張った。岡崎には間違いなく不穏なものが紛れこんでいる。本多忠勝がしょっちゅうきていると、不穏分子に印象づければ妙な動きを抑止する力になる、と忠勝は考えていた。 「凄い数の人ですぜ、忠勝殿」 小助が言って、落ち着なく首を巡らせた。毎度の事だが、忠勝が町を歩けば人が多く集まってくる。 「本多忠勝様ぁ」 沿道、小さな子供が歓声をあげている。それを皮切りに子供たちが忠勝の名を口々に叫び、囃し立て始めた。 「すげえ人気ですね、忠勝殿。ほら、手でも振ってやったらどうですか」 「遊びにきているわけではないのだぞ」 忠勝は言ってから振り返り、小助を一睨みした。肩を竦めて小助が黙った。 何かが岡崎で起きようとしている。心に掛かった靄、この正体が何であるのか、突き止めなければならない。 「ねえ、忠勝殿」 小助が遠慮気味に声をかけてくる。 「いつも思ってたんですが、槍、重くないですか? 俺が持ちましょうか」 「いや、いい」 「なんで、忠勝殿ほどの大将が槍持ちを遣わねえんです。前から不思議で不思議で」 「槍持ちならずっと居る」 忠勝は左手で大数珠に触れて言った。振り返ると小助が怪訝な表情を浮かべていた。 いつも嬉々として忠勝の槍を持っていた男が昔いた。7年前に死んだ小阪助六だ。忠勝は助六が死んだ日に決めた。本多忠勝の槍持ちは永遠に小阪助六だけである、と。今でも忠勝以外で蜻蛉切に触れる事が赦されるのは助六だけなのだ。
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