《98》

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 周囲に人が増えている。本多忠勝が町のど真ん中で老人と揉めている。大衆にとって、かっこうの好奇対象になっているのだろう。 「こっちに来い」 言って忠勝は歩き始めた。小助がついてくる。半蔵はついてきている気配がない。岡崎城の壕沿いを歩き、左に曲がった。ちょっとした茂みに入っ た。そこまで行くと衆目がなくなった。 正面、樹間から服部半蔵が現れた。老人姿を解いている。いつもの黒装束が全身を覆っている。  半蔵がゆっくりと歩き、近づいてきた。足音の代わりに義手の鉤が音を立てている。 「俺は忍が嫌いだ」 忠勝は言った。半蔵が立ち止まった。黒い覆面の口許が収縮している。 「その気持ちは一生変わる事がないだろう。が、感情とは違う部分でお前の有用さもよくわかっている」 「頭を下げろ、本多忠勝」 半蔵が言う。 「なんだと」 忠勝は眉をひそめた。 「その大層な兜を着けたまま、本多忠勝が毛嫌いする忍に頭を下げて物を頼む」 地の底から湧き上がってくような声で半蔵が言った。 「この事実を目撃できれば、銭は負けておいてやろう」 「ふざけるな」 小助が大きな声で喚いた。 「忠勝殿がお前なんかに頭を下げてたまるか。ふざけた事を言ってると俺の槍がお前を貫くぞ」 「どこに向かって喚いているのだ」 背後から半蔵の声が聞こえた。最初からそこに居なかったかのように、正面に居た半蔵が消えている。振り返った。小助が小刻みに震えている。半蔵の短い刀が小助の首元に当てられていた。 忠勝が体を半蔵に向けた。半蔵は小助の首に当てていた刀を下ろした。 「銭、銭と、しきりに言っているが、それだけではないのだろう、服部半蔵」 忠勝は言った。 「わざわざ俺の前に姿を現したのは、早急に岡崎城の内部深くまで調べる必要性を感じたからだ。だが、お前は忍の誇りかなにか知らぬが、依頼され銭を受け取った仕事しかやらないと聞いている。お館様や康政から依頼された仕事は町を調べろという事だけだった。お前は早急に誰かから追加の仕事依頼が欲しかった。城内を調べろ、と。だから俺の前に姿を現した。服部半蔵よ、お前の中に銭以外の想いが芽生えているのだろう」 「銭以外の想いだと」 半蔵の声が少し乱れた。 「お館様への忠義が芽生え始めていると俺は思っているがな」 忠勝は言って、半蔵の前で膝をついた。
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