《98》

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 信康の憔悴しきった表情が忠勝の脳裏を過った。初めて出会った時の生意気だが自信に満ちていた表情、黒疾風の中で駆けさせ、死にそうになっていた時の表情、後に見せた充実感に満ちた表情、次々と信康の色んな顔が浮かんでくる。まだ二十歳にもなっていない純粋な男なのだ。ちゃんと育っていけば家康の立派な後継者になる。忠勝は信康の事を将来の主君として認めていた。早く救ってやりたい。こんな頭で良ければいくらでも下げてやる。忠勝は懐に手を入れ路銀が入った袋を取り出し、地に置いた。 「頼む、服部半蔵殿」 忠勝は鹿角を半蔵に向けて言った。 「岡崎城内部に潜入し、様子を探ってきてくれ。そして若殿を連れ出してきてくれ。もし、銭が足りぬなら、言ってくれ。後日用意する」  更に深く頭を下げた。地が忠勝に迫ってくる。恥辱が熱となり、忠勝の全身を駆け巡った。奥歯を強く噛んだ。 「2刻(約4時間)、ここで待て」 半蔵の声が頭に降ってくる。忠勝は顔を上げた。半蔵の姿が消えている。銭の袋が地に残されていた。忠勝は立ち上がった。小助が体を右往左往させている。 「どうなってるんですか」 乱れた声音で小助が言った。 「あの野郎、空気に溶け込むようにして消えましたよ」  忠勝は地に置かれたままの銭袋を見つめた。 「2刻待つぞ」 「そんなに待ったら、夜になっちゃいますよ」 風が冷たくなっている。小助が身震いしながら言った。 「あんな野郎、信用できるんですか?」 「仕事はやり遂げるさ。俺は銭以上の物を払ったのだ。半蔵もどうやらそう感じてくれたようだ」 忠勝は銭袋を見つめたまま言った。ほんの少しだが初めて服部半蔵と心が通じ合ったような気がした。
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