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忠勝は蜻蛉切を小脇に抱え、樹に凭れ、座った。眼を閉じた。鳥が鳴く声が聞こえている。茂みの向こう側に町の喧騒を感じた。
蜻蛉切の重みが全身に伝わってくる。あと何年、この大槍を振るえるのだろうか。信康が家督を継ぐ頃、自分は何歳になるのだろうか、と忠勝は考えた。20年くらい先か。20年後、忠勝は齢50になる。50歳になった本多忠勝を想像しようとしたが、うまく像を結べなかった。老いた自分自身の姿を頭が拒絶している。蜻蛉切がさっきよりも重い、と感じた。
「あっ」と小助が声を発した。忠勝は眼を開いた。周囲には闇が降りている。忠勝は立ち上がった。忠勝の正面、服部半蔵に伴われ、信康が立っていた。
「若殿」
言って忠勝は頭を下げた。
「お久しぶりです」
「忠勝、すまぬ。母上がお前たち浜松衆につらく当たってしまった」
月明かりの下、信康の姿は憐れなほどにやつれていた。削げた頬が信康の表情を悲壮に見せている。
「今、岡崎城内で何が起こっているのです?」
忠勝は訊ねた。信康が俯き、唇を噛んだ。
「母上は狂ってしまわれた」
信康が重々しく口を開いた。
「政務や軍務に口を挟むようになってな。城内の庭園を豪奢にする為、今後税収を倍にすると言い出したりする始末なのだ」
「そこはきちんと言わなければなりませんぞ」
忠勝は言った。
「岡崎城の主は若殿なのです。いたずらに民を苦しめてはなりません」
「わかっている」
信康の声が高くなった。
「わかっているのだ、忠勝。だが、情けない。俺は、母上を前にすると何も言えなくなる。先日、平岩親吉が母上に諫言し、棒叩き百回の刑を受けた。今もまだ起き上がれぬ状態だ」
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