《99》

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 巨大な生き物が悶え苦しむが如く、右へ左へ炎が揺れる。おもむろに、松永久秀が甲冑を脱ぎ捨てて、半裸姿になった。首から鎖に巻きつけた茶窯をいくつもぶら下げている。 「俺はよ、70年間、好きな事だけをやって生きてきた。これ以上ないってくらい楽しい生涯だったぜ」 久秀の声は生気に満ちていて、どこまでも澄んでいた。 「ただ一つの心残りは、信長、お前を倒せなかった事だ。だが、紙一重だった。上杉謙信があんなにもあっさり退いちまうとはな。大誤算だったぜ」 「資質よ」 山の中腹を睨み上げ、信長が言葉を返す。 「ほんの僅かな差かもしれぬが、それは永遠に縮まらぬ。お前よりもわしの方が天下人としての資質が上なのだ」 「そうなんだろうな」 久秀がこちらを見ている。逆光でよくわからないが、久秀のあの大きな笑顔がそこにはある。秀吉はそんな気がした。 「わしはお前に楽しい刻をまだまだ与える事ができる」 信長が言った。 「平蜘蛛を譲り投降しろ」 「嫌なこった」 久秀が童じみた口調で返してくる。 「信長、ありがとよ」  物見櫓から、久秀の体が空に向かって飛んだ。首にぶら下がった茶窯が左右に広がり、それはまるで翼のように見えた。久秀の体が炎に包まれる。破裂音と共に、天衝く勢いで火柱が上がった。火を帯びた欠片が降ってくる。秀吉たちは少し下がった。足下に転がる欠片が地で燃えている。おそらく、首にぶら下げていた茶窯に火薬を仕込んでいたのだろう。  信長が屈んだ。信長の足下を見、秀吉はぎょっとして、身を仰け反った。松永久秀の首が転がっていたのだ。炎に包まれた久秀の首はあの大きな笑顔だった。 「愛らしい男であった」 久秀の首を見つめたまま呟く信長の表情は、どこか寂しげだった。
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