《100》

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 昌満の馬首が回り、田中城の方角に駆けていく。左手一本で不自由そうに手綱を操っている。遠目でも右手の指先から血が滴っているのがよくわかった。 「父が偉大過ぎるゆえの哀しみか」 忠勝は呟いた。武田勝頼もそうであろう。信康も同じかもしれない。皆、父親の大き過ぎる影に苦しんでいる。自分は自分である。そう割り切って生きられれば楽だ。誰しもがそれをわかっていながらできずに苦しんでいる。昌満の背中が小さくなり、やがて消えた。  夜には、瀬戸川に船橋が架かった。この船橋が太い兵站線となり、田中城攻めを支える事になる。本隊が黒疾風に追いついてきた。草が刈られ、野営が敷かれる。 家康や鳥居元忠たち年嵩の諸将は近くにある寺で夜明かしをする。3月だが夜になれば風の冷たさは真冬と変わらないのだ。  忠勝は陣所に沢山の火を焚かせた。葵紋が書された陣幕が煌々と照らされる。忠勝隊は榊原康政の隊と交代で仮眠を摂る事になっている。火の傍に床几を置き、忠勝が座って薪をくべていると酒井忠次が傍に寄ってきた。 「風が刺しますのに、寺には行かれなかったのですか、忠次殿」 忠勝は言った。 「やかましい。老人扱いするな」 忠次が笑いながら怒った。忠勝は立ち上がり、忠次に床几を勧めた。陣所の隅にある床几を持ってきて忠次の隣に置いた。忠次と並んで床几に腰かけた。少しの間、無言で炎を見つめてから、「山県昌満という男はどうだった」と忠次が訊いてきた。  忠勝は炎の揺らめきに眼をやった。 「苦しんでいましたね」 「そうか。小物であったか」 「あれだけの男の血を受け継いでいるのです」 炎に視線を据えたまま忠勝は言った。薪が爆ぜて音が鳴る。 「重圧も相当でしょう」 「関係ない、関係ない」 忠次が右手で闇の虚空を切りながら言った。 「親がどうだ、主君がどうだ。そんな事とは全く無関係の場所に名将とは存在しているのだ」 「そうなのでしょうか」 「そうだ。現に忠勝、お前がそうじゃないか」
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