《88》

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 間断なき鉄砲の連射など不可能であると忠勝は思っていた。近江で織田軍の鉄砲訓練を目の当たりにしたあの直後でも、だ。撃手、煤取り、込め手。役割を分担しての三位一体の法。訓練では上手くできても実戦では通用しない。勝負の決め手はやはり馬上槍だ。半ば、願望めいて忠勝はそう思い続けていた。実際いくさが始まってみると、織田の鉄砲は撃ち止む事がなかった。武田騎馬軍団のほとんどが馬防柵に接近できず、撃ち落とされていった。  武田の騎馬が一騎落ちるたび、忠勝は自らが歩んできた道を否定されるような気分にとらわれた。鉄砲が撃ち止まない、いくさ場。これが当たり前になれば、槍など意味のない長物になり下がってしまう。織田の鉄砲。それを想うたび忠勝は自分自身の存在が少しずつ削り取られていくような、物憂い気持ちにいつもなった。    厭戦というほどの想いかどうかはわからないが、忠勝はいくさに身が入らなくなっていた。家康はそれを見抜いていたのだと思う。それで忠勝に帰還を命じたのだ。    この小川に来る前、忠勝は屋敷に寄った。唹久の事が気になったのだ。 昨年の12月に懐妊が発覚した唹久の腹はかなり膨らみ、いつ子が出てきても不思議ではない段に来ている、と乙女が教えてくれた。    唹久本人は屋敷の奥に引っ込み、忠勝の前に姿を現さなかった。子を産み終わるまで、産婆以外は誰も傍に寄せつけないと決めているらしい。
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