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唹久姉さんは、美へのこだわりがあるからなぁ。
乙女の、この呟きを聞いて忠勝は察した。唹久は苦悶に歪む顔を忠勝に見られたくないのだ。唹久の気持ちを尊重しようと忠勝は決め、屋敷の奥には近づかなかった。
小川から出た。渇いた手拭いで体を拭き、出がけに乙女が持たせてくれた洗いたての直垂を身につけた。布から陽光の匂いが漂ってくる。それを鼻孔に吸い込むと、時の流れが緩やかになった。一時であろうと戦時ではない日常に戻ったのだと忠勝は思った。
忠勝は屋敷に帰り着いた。特に何もせず、部屋でぼんやりしていようと考えていた。縁側、障子戸が開け放たれていて風が入ってくる。
「父上」
障子戸の向こう、中庭に短袴に鉢巻といったいでたちの小松が立っていて、忠勝に声をかけてきた。
「稽古をお願いします」
「またか、小松」
「はいですじゃ、父上」
言って小松が右手にある棒を翳す。
屋敷に居る時、忠勝はしょっちゅう小松に挑まれる。別に嫌ではない。娘との触れ合いの刻と考えている。
「早よう、父上」
小松が忠勝を急かす。
忠勝は庭に下り、立て掛けてある棒を一本取った。
小松の気合いのかけ声が庭に響く。打ち込まれてくる一撃一撃の棒は息を呑むほど鋭く、気を抜けば受ける忠勝が棒を地に落としてしまいそうになるほど重かった。もはや小松の武技は齢10になったばかりの女童のそれではない。背丈も忠勝の顎の辺りに頭が来るほど伸びていて、両の腕には筋骨が隆々と溢れている事が着物の上からでもよくわかる。
おそらく、同じ年頃の男の童と打ち合っても小松が負ける事はないだろう。
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