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そして、宇汰も見つけるなり、
「百舌鳥君!有難う、本当に助かったよ!」
ぎゆうっと力強く両手を握り締めてきた。
パーソナルスペースの狭い人間なのか、この人当たりの良さは白居と同等に見える。
「いえ…」
差し支えない言葉で、少しだけ社交辞令な笑みを浮かべれば、碧司も嬉しそうに口角を上げた。
ようやっと今日が終わる。
さっさと帰りたい。もう汗だくのままでいいからシャワー等浴びずにもう帰ってしまいたい。
「で、チカはこれから、会食あるからね。ボクと向かうよ、いいね!」
「嫌だよ。碧司だけ行けば」
「行くって、僕だって行くよ!でも、チカはオーナーが…って言うかオーナーの娘が食事をどうしても、って言うからさぁ…」
「俺、あわよくば狙いのカマトト女嫌いだから」
「言い方っ!」
「頭も股も緩そうな癖に箱入り気取ってる痛い女とか無理」
「…別に枕営業じゃないのに…」
「分かってるけど、同じ空気吸って飯不味くするとか、それ何の苦行ぉ?」
(………)
ハルに似た声でこんな会話が繰り広げられるのが、居た堪れない。
ふわふわっとしてるのに、凛とした声。聞けば聞くほどハルの声だと錯覚してしまいそうになるのも嫌だ。
別にハルに対して聖人君主のイメージを抱いていた訳じゃない。
(けど…けど、ここまで露骨に口悪い事ある…?)
だから違うと思いたい。優しくて、頼りたくなる声音を思い出せ。
こちらまで溶かされる様な、どこか憂いを孕んだ掠れた声で、特に宇汰の名前を呼んでくれる声は腰から砕け落ちそうだった。
ハルと書かれたうちわを持って、号泣したくなるほど。
確かに、確かに、瀬尾の声にも反応はしてしまったけれど、それはあくまでもハルに似ていると言う認識があってしまったからだ。そう、それだけ。人間性はどうかと聞かれたなら…。
(………………いやいや、自分の変態性を再確認したい訳じゃない)
一人言い訳大会を己の中だけで開催していても仕方ない。
最近ハルの声が聴けていないから、耳もおかしくなっているのだ。ちょっと耳が欲しているから、禁断症状的なものが起きているだけだ。
だから、
「それより百舌鳥君」
ぞ、わり
「ひっ、…あ、は、はい」
考えていた事が考えていた事だけに急に話しかけないで欲しい。
びくぅと身体を跳ねさせた宇汰はタオルを目深に掛け直し、チラリとそちらに眼を向けた。
「お給料って聞いてる?碧司、百舌鳥君の給料ってどうなってる?」
「あ、そうそう。それなんだけど、振り込みしたいから、口座とか名前もフルネームで教えて貰っていいかな?」
「え、」
「え?」
瀬尾をハルではないと思っているものの、ここで自分の名前を晒す事に絵に描いた様な戸惑いを見せた宇汰へ二人の視線が集中する。
こんなに自分も動揺し、かつ二人からも反応をされるとは。誤魔化さなければ、と宇汰は視線を落とすとぼそっと口を開いた。
「あ、あの…個人の口座…作ってないんで…」
あまり自分の声も聞かれたくない。
無口な陰キャ、普段とあまり大差はないキャラ設定する宇汰はそれを忠実に再現する事に決めた。
「そうなの?じゃ、後日渡すとして…じゃ、名前だけでいいよ」
「あー…え、と…」
引いていた汗がまたぶり返して流れてくる。
怪訝な表情で首を傾げる碧司もだが、じぃっと自分を見詰めてくる瀬尾の感情も一切分からないのも何故か恐怖を感じる。
バイト時の名前をもう少し考えれば良かった。安易に決めてしまった自分自身に腹まで立ってくる始末。
だが、いつまでも名前を言わないのも不自然、怪しさ極まりない。こうなったら、
「あ、の…バイト代…結構です」
「は?」
いっそ今日の事は無かった事にして頂こう。
「ボランティア気分で…来たので…いいです…」
すすっと二人から距離を取り、宇汰は自分の持ってきたバッグを掴むと、頭を下げた。
「し、つれいします」
「え、え、ちょ、百舌鳥君っ」
焦る碧司を他所に、脱兎の速さで部屋を出る。イメージとしては残像しか残らない勢いで。
同時にスマホを取り出し、白居には職場の人間に俺の名前を教えるな、と送信。一応彼は今回の事で宇汰に借りが出来ている為、きっとそれなりに上手く誤魔化してくれる筈。
レストランの廊下を抜け、扉を開ければまだ明るい外。
詰まっていた息がようやく出来ると、安堵に力が抜けそうになった宇汰だったが、
ガシっ
「―――う、ぁ」
掴まれた肩がそのまま引っ張られる。
無理矢理に近い形で後ろへと眼を向ければ、サラリとした色素の薄い髪色、次いで、細められた薄緑の眼が見えた。
「百舌鳥君」
―――――いっ!!!!
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