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ハルが萌黄
【初めてのお仕事が来たよ~あちらから電話が来るから待機しとけよー
19時30分から
10分コース(自分で計る事!)
男性
名前 ハル
ご新規さんだから失礼の無い様になぁー('ω')ノ】
顔文字がこんなに腹が立つと思った事は無い。
(つうかっ…!!19時半ってっ!もうあと20分も無えじゃんっ!!)
もっそもっそと食べていた夕食を律儀に口の中に詰め込むと空になった食器をさっさと洗い場へ持って行き水に浸し、そのままベッドに正座してスマホを握りしめる。
(電話…来るよな…)
人見知りと言う訳ではないが、いきなり見知らぬ人間の愚痴を聞くのは流石に緊張もする。自分はどちらかと言うと地味で目立たない部類だ。
学生の頃からそう言った雰囲気は抜けない。
大体男性とあるが、聞き手は女性相手の方が良かったのでは無いだろうか。10分とは言え、話も上手く聞けずに、怒りを買ったり怒鳴られたりしたらどうしよう、等と考えるのは当たり前の事。
「はぁ…もう、マジでコウさんって自由過ぎるだろ…」
ああああ…っと嘆いていれば、時間とはすぐに過ぎるもの。
不意に震え出したスマホに宇汰の身体は大袈裟な程飛び上がった。
「や、やべっ!出なきゃ…っ」
深呼吸一つ。
通話ボタンを押し、スマホをそっと耳に当てた。
「も、もしもし…」
『…もしもし、えっと…こんばんは』
ふわり、と聞こえた声はかなり落ち着いた男性の声。
柔らかくすっと耳に入ってくるかの様で、宇汰は一瞬呆けてしまったが、相手が挨拶をくれたのに今になって気付き、
「こ、こんばんは。」
と慌てて挨拶を返す。
そんな宇汰の様子を感じ取ったのか、相手がふふっと笑うのが感じ取れる。
「す、すみません。実は俺もその、初めてで…」
本来ならばこんな事公言してはいけないのだろうが、思わずそうポロリと漏らした宇汰は相手に見えもしないのに深く頭を下げた。
『大丈夫だよ。じゃ、僕が初めてのお客さんなんだね』
「そうです…えっと、ハルさんですね。宜しくお願いしますっ」
『実は僕も初めてなんだ。こちらこそお願いします。じゃ、早速愚痴いいかな』
「どうぞっ」
こんな穏やかそうな声音の人でも愚痴なんてあるのだろうか。矢張り人には見えない闇の部分がたくさんあるのだろう。大人であれば、尚更。
そんな事を思いながら、一言も聞き逃さぬように耳元に意識を集中させる。後から相談等されて、何もきいてませんでは話にもならない。
『実はね、少々お疲れ気味でね』
「お疲れ…ですか」
『そう、仕事疲れ、みたいな』
「それは、本当に……お疲れ様です…」
まだ学生の宇汰には社会人の苦労等想像でしか分かり得ない。
故に気の利いた言葉も出なければ、励まし一つ送った所で何の癒しも与えられないのではないかと差し当たり無い言葉を贈るしかできない。
果たしてこれが正解なのかは分からないが、有難うとまた相手が笑う気配にほんの少しだけ安堵の息を吐いた。
『いつも最近残業ばかりだったけど、今日はいい加減切り上げて帰って来たんだ。…まぁ、明日が若干不安ではあるけどね』
「いつもはもっと遅いんですか?」
『うん、二か月位はゆっくりしてないなぁ』
「二か月っ」
よくよく耳を集中させれば確かに少し疲労感のある掠れた声。
「仕事って…ハルさんだけなんですか、社員」
『え…いや、小さい会社だけどそれなりに数は揃っては居るよ』
「それなら、繁忙期とか?」
『あー…いや、今の所は…立ち上げた頃に比べると…』
立ち上げた?会社を?
一瞬宇汰の頭に浮かんだ疑問だが、それを問うにはあまりに個人情報過ぎる。
それにそんな事は今は関係ない。
「…皆、ハルさんみたいに忙しいんですか?」
『……そう言われると…違うけど』
「じゃ、ハルさんの負担分も皆で分担出来る様になったらいいですね。しんどい事は少ない方がいいし」
もしかしたらこの人は一人で色々と抱え込んでいるのではないだろうか。
優しい声の通り、周りに気を遣って負担を背負っているのかもしれない。
宇汰の想像ではあるが、もしそうであったならハルが気の毒過ぎる。
そう思ったら、想像以上にはっきりと出た声に自分自身驚いてしまった。思わず、ハッと口元を手で押さえるが、
『ねぇ、名前教えて貰っていいかな』
「えっ、あ、」
(そういや名乗ってなかった…え、つかこの場合本名?)
浩一郎からは何も聞いてなかったが、何も思いつきもしないキャパの狭さに仕方ないと宇汰はスマホを握りしめた。
「う、ウタです」
『ウタ君、だね』
(あれ…これって…)
クレーム入れる為のやつとかじゃないよね?
タラっと流れる冷や汗が尋常じゃない位脇を濡らしている気がする。
別に進んでやっている訳では無い仕事にしろ、流石にクレームは浩一郎へ迷惑を掛ける事になる筈。
緊張から正座になる宇汰だったが、
『ねぇ、ウタ君。ハルさん頑張って、って言って』
「……へ?」
『もうすぐ10分だよね。最後にそう言ってくれたら嬉しいな』
あ、そうだった。時間を見ているのを忘れた。
客であるハルからそう言われ、しまったと時計を確認すれば、確かに残り一分程度。
『そういうのってもしかして駄目なのかな?』
「あ、いえっ!大丈夫ですっ」
『良かった』
「あ、では…ハルさん、頑張って下さいっ、お話出来て嬉しかったですっ」
『え、』
「それでは、またご利用頂けると幸いですっ、失礼しますっ」
『あぁ、有難う…』
また誰も居ない空間に向かって深々とお辞儀をした宇汰はスマホのボタンを押した。
通話終了の文字。
シンっと静まり返った部屋に、何だか現実味が無い事の様に思える宇汰はぼうっとスマホを見詰めた。
着信履歴がある。勿論非表示だが、ディスプレイに映ったそれに一仕事やり終えたのだと思うと、はぁぁぁぁ…っと出てくる深い溜息。
そうして、この疲労感。
(め、めっちゃ…緊張した…)
誰が見ても宇汰には向いていない仕事だ。
脱力すれば、何だか肩や背中が痛い。正座していた為に足がジンジンと痺れだしている。
(しんどい…しんどけど、やりきった…)
初めての客が穏やかで優しそうなハルで良かったと思うものの、失礼があったかもしれない、こんな社交的でもない自分で内心外れた等と思っているかもしれない等とマイナスな思考は尽きない。
「…ご新規さんの仕事何件かで終わりそう…」
はぁーっと未だ出てくる溜息を吐きつつ、もそりと起き上がった宇汰はべったりと汗で張り付いたシャツに今更ながらに不快を覚え、取り合えず疲れを癒すべく風呂へと向かった。
******
「…は?」
『だからぁ、すげぇじゃん!お前次指名で来てるぞ、依頼がっ』
次の日、大学の食堂で昼食を食べている宇汰の所に浩一郎から掛かって来た電話は食べ掛けの学食一安い美味い胃にも優しいと評判の親子丼を噴き出す程の破壊力を持っていた。
「は、しっ、指名っ!?嘘っ、昨日の今日で!?…ん、って事は…」
『ご名答ー!昨日のハルさんだよ。日時は明日だけど、すっごいじゃん宇汰ぁ!』
「え…そ、そう?」
噴き出して散らばった、さっきまで親子丼だった残骸を集める宇汰は少しだけヘラリと口元を緩めたが、
『明日は30分コースだってよぉ、頑張れよー!』
「…え」
(30分…!10分でもあんなに疲労を感じたのに、30分!?)
未だに昨日の名残で肩が痛い。ずっと力を入れていた為だろうと容易に想像が出来たが、それをまた明日30分も…。無意識に額に手を当てて、か細い声で唸る宇汰に『また詳細はメールするから~』なんて能天気な声を掛けると浩一郎からの電話は切れた。
「…明日かぁぁぁぁ」
丼に残った白米を掻き集めながら、深い溜息が止まらない。
でも指名をしてくれたと言う事は、少し位は自分を気に入ってもらえたと言う事だろうか。
不快に思わせた訳でも無く、つまらないと感じさせた訳でも無い、そう受け取っていいのかもしれない。
そう思えば、少しは軽くなった宇汰の心。
(明日、か…)
それと同時に、またあの穏やかな人と話せる事に期待が見いだせたのだった。
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