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これは遠い遠い国の、昔々のお話。
現世で悪行の限りを尽くした罪人の男がいた。その罪人はある日突然死んでしまい、地獄へ行くことになっていた。
(あれだけ悪いことをしてきたんだ。地獄へ堕ちるに決まっているだろう。そして俺はこれからずっと苦しまなくてはならないだろう)
罪人はそう思うと気が重くなり、これから先何が待ち受けているのか不安でいっぱいになる。
ふと気が付くと、その罪人はある場所で目が覚めた。そこは何やら静かで穏やかな雰囲気。緑がいっぱいの高原、自分が立っているまわりには綺麗な花なんかも咲いていて小鳥の囀る声も聞こえる。空を見上げると雲一つない真っ青な空が広がっている。暖かくて心地よい風も吹き、こんな清々しい景色を目の当たりにするのは初めてだ。こんなにいい気分に酔いしれたのは久しぶりのことだった。しかし、罪人の男はあることに気が付く。いくら空を見渡してもこの場所には太陽がなかった。なのに、あたりには明るい光がさんさんと輝いていて、それはそれは不思議な場所であった。
(何なんだここは…。よくわからないが、これじゃ地獄じゃなくてまるで天国じゃないか!)
罪人は驚きと、少しばかりの狼狽えと、でもそんな中にちょっぴり心躍っている自分がいる。なんだか自分がおとぎ話の主人公になったかのような気でさえいた。
そんな気分に浸っている最中、罪人はふと自分の後ろに気配を感じた。と同時に背後から何者かの声が聞こえ、それは罪人に向かって発せられているようだった。罪人はとっさに身構えようと全身が強張る。
「お目覚めになりましたか、ご主人様」
何か言葉を言っていたようだったが罪人の男は緊張のあまり、聞き取れなかった。唾をごくりと飲み込む。そして恐る恐る声のする方を振り返る。そこにはメイドの格好をした女性が佇んでいた。
そして驚愕することに罪人が振り返った瞬間、あたり一帯が一変していた。今までいた気持ちのよい、しかしなんとも不思議だった外の風景ではなく、一瞬でどこか別の空間に移動していた。口をあんぐりと開け、まるでイリュージョンを初めて見た小さな子供の様に唖然としていた。今いるこの空間はどうやら部屋の一室らしい、そしてとても豪華な作りになっている。大きなベッドに高級そうな絨毯、自分の身長よりも大きな両開きの窓もある。壁にはたくさんの絵画が掛けられており、宝石がところどころに散りばめられたシャンデリアの照明。まるで王宮に住んでいる王様の部屋のようだった。罪人はとても困惑し、今いる状況を受け止められていない様子でたじろぐ。
そんな目の前にいる輩の様子など気にも留めていないかのように、急に現れたそのメイドは自分の使命を全うするかの如く毅然とした態度でいる。片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ両手でスカートの裾をつまみ軽く持ち上げた。そして恭しく頭を下げる。その仕草はとても魅力的で、優雅で上品さを感じる程だった。
「何か御用はございませんか? 何でもお申し付けください」
そのメイドの女性は初めて会う目の前の罪人に厳かだが、とても親しみを込めた言い方で接してきた。不信、というよりも不思議な思いの方が大きい罪人は戸惑いながらもメイドの質問に答えた。
「そ、そうだな。腹が減った。何か食べ物はあるのか?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
メイドは軽くお辞儀をし、しばらくするとどこからともなく料理を運んできた。お腹の空いていた罪人はその料理について全く警戒せずにがっつき、無我夢中で食べた。料理を食べ終えると、またメイドがやってきて罪人にお辞儀をした。
「他に御用はございませんか、ご主人様」
「そんなことよりここはどこなんだ? なんで俺はこんな…。ここは地獄じゃないのか? 俺は死んだんだよな?」
「何をおっしゃられているのですか、ご主人様。ここはあなたのお屋敷でございます」
メイドにそんなことを言われ、罪人はキツネにつままれたようにぽかんとしてしまう。そしてふとある考えが頭の中をよぎった。
(地獄に堕ちたと思っていたけど、どうやら何かの手違いで天国に来ちまったみたいだな。それならそれでバレるまで楽しむまでだ。俺はなんてラッキーな男だ)
にたにたと不気味な笑みを浮かべながら罪人は、とことん自分の欲望を満たそうとメイドにいろいろと命令する腹積もりでいた。
「そうか。じゃあ次は、マッサージをしてもらおうか」
そう言って罪人が横になると、メイドは近寄りマッサージを始めた。
マッサージを終えると、またメイドは御用聞きをする。
「他に御用はございませんか、ご主人様」
この調子で、罪人はあれこれとメイドに指示を出し、メイドはそのすべてに応えた。今いる王宮のような豪邸にさらに大きなプールを備え付けるように命令し、金銀財宝を山のように持ってこさせ、贅沢の限りを尽くす。
しばらくすると命令することも簡単には思いつかなくなる。人間の欲というのは底知れないとよく言うものだが、案外この程度のことしかくらいしか考えられないんだなと罪人は自分の欲望の無さに失望した。
飽てしまった罪人は他に何か欲を満たせるものはなかろうかと、ない頭で色々考えていた。窓から爽やかな風が吹き、とても心地よいお日様の匂いが部屋をいっぱいにする。それに誘われるかのようにウトウトとしてきた罪人の男は、椅子に座り背もたれにもたれ掛かるようにして目を瞑った。
すると突然肩を揺らされ、声を掛けられた。
「ちょっとそこのお兄さん」
勢いよく揺らされた罪人は驚き、反射的に飛び退ける。しかしそこにいたのは先ほどのメイドではなく、まったく別の女性、まったく別のメイドがいた。袖から伸びるその腕は日によく焼けていて、顔のほうも褐色な肌がいかにも健康的といった感じの女性のだった。そしてそのメイドはなぜだか先ほどのメイドとは違い罪人の男をご主人様と呼ばずに、お兄さんと呼んでくる。
「あ、眠っていないみたいですね、よかった。お兄さんお兄さん、私とあの丘に行ってみましょう。いい眺めですよ」
声の大きいそのメイドはどこからともなく現れて、窓の外を指さしながら罪人の男に満面の笑みを向ける。そして彼女はおもむろにパンパンっと手を叩いた。すると、一瞬で罪人とその女性は王宮の外に移動していた。罪人は突然の現象に恐怖にも似たような感情を抱く。(まただ。また急に移動している。こいつらは一体何なんだ。魔法でも使えるのか)あまりにも複雑な心境が故に罪人はその女性に誘われるがまま、丘を登ることを承諾した。
この世界についてあれこれと考えているうち、気が付いた時には罪人はもう丘の上に登っていた。
「良い眺めでしょう?」
腰に手を当てふーっと一息つき、手の甲で額の汗を拭った彼女はこの景色を見られたのは私のおかげよ、とでも言いたげな恩着せがましい物言いだった。その態度に一瞬イラっとしたが、けれどそこは本当によい眺めで向こう側には湖も見渡せた。
丘を登り疲れた罪人は木陰で休もうと近くにあった大きな木にもたれ掛かり、ようやく一息つくことができた。とても気持ちの良い場所で景色も申し分ない。疲れていたこともあり、罪人はついウトウトし始めた。
「お兄さん、お兄さん」
「何だ? 少し疲れてそれに眠いから休憩させてくれ」
「お兄さん。さあ、今度はあっちに行ってみましょう。よい眺めですよ」
まだまだ元気が有り余っている様子のメイドは向こう側の湖の方を指さしている。罪人の言葉には華麗にスルーされた。
「俺は遠慮しておく。行きたいなら、一人で行けばいいだろう」
ぶっきらぼうに答えるが、罪人のからだは眠気で多少前後に揺れている。
「ちょっとお兄さん!」
そうやって、罪人が寝ようとするところを必ず起こしてくる。疲れて切ってしまった罪人は、そのメイドの言うことを無視して一人で自分のもと居た王宮に帰ろうと踵を返した。
自分の部屋に入ると倒れこむようにベッドに身を投げる。すると最初に出会ったメイドがつかつかと足早にこちらに向かってやってくる。
「おかえりなさいませ、ご主人様。何か御用はございませんか?」
「そういえばここに時計はないのか? 今は何時だ?」
「はい。現在、午後10時15分を回ったところでございます」
「午後10時!? 嘘をつけ。だってまだ外は明るいじゃないか」
確かに外は明るかった。メイドの言うことに納得いかない罪人は、時計を持ってこさせた。メイドから時計をひったくるように奪うと、罪人は自分の目を疑う。確かに時計の針は午後の10時15分を指しているようだ。
時計はあるし時間は確実に進んでいる。ここに来てからかなりの時間が経つはずだが一向に夜になる気配がない。
罪人の頭の中はたくさんの仮説がよぎる。いろいろな要素が思い浮かんでは消え、論理的に考えては否定し、そんな思考を繰り返す。そうだ、ここには太陽が無かった。なのにとても明るくあたりが照らされていた…。ある推理にビットが立ち、それが最もらしい答えのように思えた。
そうか、不思議なこの世界には夜というものが存在していないらしい。だから寝ようとすると必ず起こされ、決して眠らしてはくれないのか。
そう結論付けた罪人だが、根本的な問題は解決していない。どうしたら寝れるだろうと色々と考え、そしてある名案を思い付きその考えに思いを馳せることとなる。
(これなら目を閉じててもバレないぞ。よし、これでやっと寝れる…)
罪人はゆっくりと瞼を閉じた。目を閉じて一秒も経たないうちにゴツッと骨の芯を揺さぶるような鈍い音が響く。それと共に今度は額には痛みが走る。
「痛っっ…!」
デコピンだった。攻撃された額を抑えながら罪人の男は目の前の犯人を睨みつける。
そこにはまた別のメイドが立っていて、痛がって不快な表情でいる主人を見てご満悦の様子だった。容姿は完全に少女だった。しかしちゃんとしたメイドの服装をきっちり着こなしている。今までのメイドとは違ってこの子はかなり生意気な感じが雰囲気で分かった。
「みなさんやるんですよー。だいたいの人、そこに目を描くんです。そんなんで騙せるわけがないでしょう。ダメですよ、起きて下さい」
そう、罪人の名案というのはまぶたの上にペンで目を描くことだったのだ。
そんなこんなで5日が経った。結局あれ以来、何度寝ようとしても絶対に起こしてくるメイドたち。一睡もできていない罪人は5日間寝てないため極限に近い状態であった。意識が朦朧としてきても、決して眠ることは許されない。
「ご主人様」
もう我慢が限界にきて、とうとう罪人はぶち切れた。
「うるさい!寝かしてくれ! もういい、うんざりだ!」
その辺りの家具や物に八つ当たりして大暴れする罪人。半ば半狂乱の状態で叫びながらいろんなものを壊して部屋をめちゃくちゃにする。暴れて暴れて暴れまくる罪人に対して、メイドは全然気にする風でもなくいたって冷静な態度で佇んでいる。
「わかりますよその気持ち。好きなだけ暴れてください」
そのうち、体力も限界にきて意識が遠のいていく。暴れに暴れて疲れてフラフラになっていた罪人は地面に倒れこんだ。そんな状況でもメイドは容赦なかった。
「ご主人様! ご主人様!」
意識を失いかけても絶対に起こされてしまう。
日にちの感覚が無くなり、もう何日経ったのかさえ分からなくなってきた。
「明日はサイクリングに行きましょう!」
最初に出会ったメイドが意気揚々と話しかけてくる。
「サイクリングなんて嫌だ。もうずっと寝てないからサイクリングなんて絶対無理!」
「そんなこと言わないで行きましょうよ。気持ちいいですよー? 風があたって最高なんですよ」
強制的に結局連れてかれる罪人の男。しかも出てきた自転車はレースなどに使われる本格仕様、所謂ロードバイクだった。罪人はふらふらになりながらも自転車を漕いで、ウトウトしながら運転していたので転んでぶつかっての繰り返し。息も絶え絶え、頑張って自転車を漕ぎ続けた罪人の体は傷だらけになっていた。
目的地に到着した罪人は自転車などお構いなしに乗り捨て、疲れ果てた身体を芝生の上に放り投げ休ませる。
「ご主人様、お食事に致しましょう。サンドウィッチを持ってまいりました」
食欲のない罪人はメイドの隙を見て、食べながら寝ようと考えていた。
「ご主人様。ご主人様。」
「…」
「あそこに高い山あるでしょ? 明日はあそこに登りましょう!」
「いやいや、山なんて絶対無理! 寝ないであんな山なんて俺、死んじゃうから!」
「大丈夫ですよ、ご主人様。ここ、死ねないんです(笑)」
「……」
次の日。重い荷物背負わされ、あの高い山を登ることになった。極限の寝不足状態で重い荷物背負っているので、足にうまく力が伝わらない。
「ほら、このあたり一帯が全部見渡せますよ。最高の気分ですね。」
メイドはお気楽にそんなことを言っている。罪人は心の叫びが漏れ出ていて、気が付いたら頬から暖かいものがいくつかの筋となり伝っていく。
「こんな辛いところ無い…。…辛すぎる。いくら何でも辛すぎるよ…」
そんな罪人を不憫に思ったのか、メイドは明るく元気付けるように振舞った。
「喜んでください、ご主人様! こんな辛いところにも、一つだけいいことがあるんですよ。一年で一日、一日だけ思いっきり眠れる日があるんです。しかもそれは明日なんです!」
「明日…。え?! 本当ですか!! 本当に、寝られるんですか!?」
「本当ですよ」
メイドはニッコリと微笑む。罪人はこのメイドが女神様のように見え、一生崇め奉ろうとさえ思った。次の日が待ち遠しくまるで遠足の前日の子供のような気持になった。
次の日。
「あー俺、今日は一日寝られるんだ。嬉しいな」
重いからだを引きずり、安息の地へ行ける喜びから自然と気持ちが昂る。
「やっと眠れる…」
身体から力が抜け、拳銃で心臓を撃ち抜かれ死んだようにその場に倒れこむ。屍と化した肉体、しかしその表情は安心し穏やかさがにじみ出ていた。
「ご主人様、ご主人様。ご主人様―!」
目の前の屍を蘇生させようと、全力でその身体を揺さぶり続ける。
「おい、ふざけるな! 今日は眠れる日なんだろ!! 今日一日寝て良いって言ったじゃんか!」
メイドはにやりと笑い、とぼけた調子でその言い分に答える。
「やだなぁ。昨日は何の日だったか知ってますか? ちなみに今日は4月2日ですよ、“2日”」
罪人は絶望した。メイドにはこれっぽっちも悪びれる様子がない。むしろ清々しいくらい普通だ。
「だって昨日はエイプリルフールだったじゃないですか。さあ、起きて今日も山登りの続きをしましょう。そこにあるリュックを背負って下さい。あ、そうそう。言うの忘れてましたけど、寝袋は出しておいて下さいね。どうせ使わないんだから(笑)。心配しなくても、寝不足で死ぬことはないですよ。だってご主人様はもう死んでるのですから」
絶望の中、罪人はまるでひとりごとかの様に呟く。まるで水をほとんど含んでいない乾いた雑巾を絞り出すみたいに、無意味な行為で自分を何とか保とうとした。
「それより…、いつまでこんなことが続くんだ…?」
「大体300年くらいですかねー。 しかし、ご主人様はついてます! ラッキーです! ご主人様の刑期はほんの150年です!」
「なんなんだよ、ここは…。もう好きにさせてくれよ…。というか寝かせてくれよ。いっそのこと殺してくれ…。これじゃまるで地獄じゃんか…」
メイドは少し驚いた顔で罪人の顔を見つめた。
「ご主人様、いったいここをどこだと思っていたのですか?」
そう言われ、改めて今までの自分の考えがことごとく間違っていたことに気が付いた。気が遠くなりめまいがして罪人は崩れるようにして倒れこんだ。しかし、それでも”いつもの言葉”で起こされる。どんなことがあろうとずっとこれからも…。
「ご主人様…、起きてください。さぁ、起きて一緒に笑いましょう!」
もう笑えない、だけど笑うしかない。その時、罪人は周りを見てあることに気が付いた。そこら中に”熊”がうようよと何かを求めるかのように彷徨っていた。
「ところで、このあたりって、なんでこんなに熊が」
「ああアレですか。最初みんな寝不足で目の下に”クマ”を作るんですけどねー。段々”クマ”が大きくなって、そのうち本当の”熊”になっちゃうんですよ。ご主人様もその日が近いですね」
了
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