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花はちる
春のくすんだ空に、とけていきそうなほどはかない薄紅色。無数の枝の先端まで花が咲いている。少し西に傾いたのどかな春の光に照らされ、幾千、幾万の小さな花たちは淡く輝いていた。
ああ、なんてきれいなんだろう。
今目の前のこの光景を言葉にしたくて、さっきどなった事を忘れふりむいた。吉数も桜を見上げ立っていた。先ほどまでうるさかった騒音は消えている。桜に吸い取られたみたいだ。
その静寂の中動かない姿が霞んでいく。思わず、引き留めようと腕をのばした。しかし、指先は空をつかみだらりと落ちた。
白いカッターシャツ姿の美少年は、フイルムを早回しするように年をとっていき、スーツを着た老人の姿へと変わった。
「思い出した。わし、この桜を見に来たんやった。なんで忘れてたんやろ」
晴れ晴れとした吉数の声。のどにつかえていたものを思い出した清々しい表情。だけど、その顔は一遍し、眉間に深いしわが刻まれた。
「間に合わんかった。迎えにきてやれんかったんや」
俺とは違う誰かに向かって懺悔しているのに、その悲痛な声が胸をうつ。
「どういう事だ?」
声を聞き、吉数の意識が俺に向いた。
「わしの息子は二十歳の時、ここで事故におうたんや。バイクツーリングにきて、接触事故にあった。命に別条はないって連絡が京都にいたわしにきたんや。でも、迎えに行かんかった。バイクは危ないって反対したのに、勝手にいったもんが悪いて」
突然、春の強い風が吹いた。風に煽られ、散る花びらが、吉数の姿と重なった。
「嫁はんが迎えに行ったら、息子の容体が急変した。慌ててわしも九州にいったけど、もう息子は冷たなってた。変な意地はったさかい、間に合わんかった」
風はやんだのに、落花は止まず花びらは俺の上にも落ちてきた。はらはらとこぼれ落ちる花びらが頬を伝う。しっとりとした冷たさが胸にしみいる。
迎えに行かなかった吉数と、迎えに来てもらえなかった俺。二つの思いが桜の下ですれ違い彷徨う。そんな人間の勝手な思いにはお構いなく、桜は花びらを散らし続ける。
「息子を連れて帰る前に、事故現場が見たくてここへ来た。そしたらこの桜が咲いてたんや。今日みたいに満開に咲いてたけど、ちっともきれいやと思えんかった」
満開の桜の下、膝を抱え母親を待っている丸まった背中。桜を見上げる老人のしおれた背中。白昼夢の中、二つの背中は重なった。
「死ぬ前にもう一度この桜見て、その時は最高にきれいやって思ってやろう。つまらん意地はったなさけない記憶をぬりかえようってそう思たんや。けど、やっぱりこの桜みたら、泣きたなるわ」
見上げていた顔は、くしゃくしゃにゆがんだ。先ほどから振り払おうとしていた別れの予感が、じわりじわりともう目の前に迫っている。
離れたくない、でも言わなければ……
「のんびり花見してる場合じゃないだろ。早く息子さんにあやまりにいけよ」
「ああそうするわ。世話になったな。そうや、ここでお経あげてくれるか?」
「今すぐじゃなくてもいいか?」
「ええよ。おまえがこっちに来るまででかまへん」
「ずいぶん気長だな」
「なあに、時間なんてあっという間にたつ」
最後に「ほな」と一言言って、吉数の姿はあっけなく消えた。
俺は目を閉じ、桜に向かい手を合わせた。あたりはいつの間にか騒音に包まれ、桜はあわただしく花びらを散らしている。
見上げると、重なり合った花の間から白い空がのぞいている。その空にせかされ、西日に照らされたアスファルトの道を一歩踏み出した。
了
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