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正直、ここまで自分の性根が腐っているとは思ってもみなかった。 久我は、無意識に胸ポケットから煙草を取り出そうとして、この店が全席禁煙であることに思い至り、行き場の失った指先を彷徨わせる。 彼が席を陣取っている店は、鷹衛の勤める法律事務所の入っているビルの向かいにある、例のカフェだ。 「久我サン、コーヒーのお代わりいります?」 ニコニコと微笑む茶髪の店員に声をかけられ、彼は短く、ああ、と応えた。店員が嬉しそうに厨房のほうへ戻って行く、そのどこかウキウキした後ろ姿に、久我は、彼らしくもなく苦い罪悪感のようなものを覚えて、小さく嘆息する。 ここで、鷹衛と遭遇してから、二週間が過ぎた。 あの日、鷹衛を追いかけるのを踏みとどまった久我は、どうやら彼に気があるらしかったさっきの茶髪の店員を、衝動的にホテルに誘った。 バックから突くのが好きなんだ、と甘く囁いて、顔を見ないようにして何度も何度も激しく責め立てた。喉の奥で、決して呼んではいけない名前をひたすらに噛み殺しながら。 後悔しないはずがないのはわかりきっていて、それも承知の上で、その晩、彼は珍しく朝を迎えるまで、一夜の相手と共に過ごした。灰皿を山盛りにするほど煙草を吸ったにも関わらず。 また会ってくれます?と躊躇いがちに訊いてきた店員に、顔を見ないまま「気が向いたらな」と、ほんの少しでも次の機会があるような匂わせをしたのも、恐ろしくイレギュラーなことだった。 そして彼は、この二週間の間、時間が取れる限りこのカフェを訪れている。端からは、まるで、付き合いたての恋人に夢中になっているかのように見えることを承知で。 「お待たせしました、お代わりです」 恋をしている人独特の熱っぽい瞳で見つめられて、久我は優しげに微笑む。 「ありがとう」 ここへ来るのは、もちろん目の前の店員に会うためなんかじゃない。そう言いきってしまうだけで相当下衆(ゲス)いのはわかっているけれど。 久我が焦がれて焦がれて、だけどその想いを伝えるわけにはいかなくて、本当は離れなきゃいけないのにどうしても想い切ることができない、そのひとの姿を一目、チラリとでも見たいからだ。 カフェのドアが開いて、いらっしゃいませ、と声が響き、弾かれたように目の前ではにかむように笑っていた店員も追唱する。 「いらっしゃいませー」 すみません僕行きます、と呟く店員の姿を、久我はもう視界に入れていない。 カフェに入ってきたのは、鷹衛だ。 どうやら鷹衛はこの店の常連らしい。今のところ、久我がこのカフェを訪れて、鷹衛の姿を見ることができなかったことはない。それもそうだろう、目の前のビルで働いているのだ。残業なのか勤務時間内なのかはわからないけれど、夕刻に少し休憩を取りたいときに、このカフェはテイクアウトもできるし、便利なはずだ。 鷹衛はいつものようにレジでテイクアウトの注文をしている。ほんの僅か、チラリと久我のほうに視線を向けるのも、もうお馴染みになりつつある。 ストーカーのように頻繁にここを訪れている久我を、気味悪がったり怖がったりしているだろうか。ほんの一瞬の視線では、何の感情も読み取れない。 でも、ここへは別に、鷹衛の姿を見るために来ているわけじゃない。ちゃんと、今ご執心の相手に会いに来ているだけ。そういう体裁にしてあるわけで。
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