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仕事を終えた仮初めの恋人と、久我はカフェを出た。
と、向かいのビルからも、まさかのタイミングで鷹衛と上司らしき年配の男性が出てきたところで。道路を挟んで、一瞬、チラリとこちらを見たそのひとと瞳が合ったような気がした。
もちろん、久我と鷹衛は、現在はただ一度会ったことがあるだけの依頼人と弁護士という関係に過ぎない。言い訳をする必要もないし、むしろ、隣に立つ店員目当てにカフェに通っていると思わせて、鷹衛を盗み見るというストーカー行為をカモフラージュしているわけで、別に慌てる必要もどこにもないはずなのに。
ソワソワと落ち着かない気分になって、久我は、視線を逸らす。
「久我サン、あの若い弁護士さんと知り合いですか?」
傍らからかけられた声に、ハッと我に返って、いや……と否定しようとしたが、続いた言葉を聞いて息が止まるかと思うほど驚くことになった。
「あのひと、たぶん、あのビルの弁護士事務所の人でメチャクチャ近くなのに、今までほとんどウチの店になんか来なかったんですよ」
彼は、久我が鷹衛をストーカーしていることに気づいているのではなく、むしろ、とんでもないことを言い出したのだ。
「それなのに、久我サンが来るようになってから、急に常連みたいに来るようになって……しかも、久我サンがあの窓際の席に座ってるときだけ、必ず来るんですよ?」
絶対あのビルからこっち見てて、久我サンのいるとき狙って来てるんです。久我サン狙いのストーカーですよ。気をつけて下さいね?久我サン、ネコ界隈では知らない人がいないぐらい有名で、熱狂的なファン結構いるんですよ?
もしかして、この子がさっき店でも何か言いたげだったのは、そのことか?
そんな思いも少し頭を掠めたけれど、それよりも。
どういうことだ?鷹衛は元々あの店の常連じゃなかった、なんてそんなこと。
いや、たとえそれまで常連じゃなかったというのが本当だとしても、この店員がたまたま鷹衛を見かけたのが久我がいるときというだけで、鷹衛が久我をストーカーしてるなんてのは、何かの間違い……。
思わず有り得ない夢のような解釈をしてしまいそうになって、そんなはずない、と否定する。
鷹衛は同性愛者を憎んでいるはずだ。
そして、久我をまるで初対面の相手のように振る舞うほど、つまり記憶から抹消したいほど嫌っている。それほど嫌悪している相手が、その上憎むべき同性愛者なのだ。
そんな相手をストーカーするなんて、そんなわけがあるか。
そんなぐるぐるとした思いに囚われてしまっていた久我は、その瞬間、剥き出しにぶつけられた殺意に対して反応が遅れてしまった。
「ゴミクズめぇええっ!抹殺サレロぉっ!!」
奇妙に裏返ったような絶叫とともに駆け寄ってくる見知らぬ男が刃物を手にしているのに気づいて、幾らか出遅れ感はあったものの、咄嗟に身体を捻ってその突進をかわそうとした久我だったが。
身体が上手く動かせなかったのは、隣に立っていた仮初めの恋人が「僕は関係ない!」と悲鳴を上げながら、久我の身体を盾にしてしがみついていたからだ。もちろん、久我は普段からそれなりに鍛えていたしガタイもいいほうなので、振り払って避けようと思えばできたかもしれない。
でも、ああ、今避けたらこの子が怪我するな、とどこかで冷静にそんなことを考える自分に、久我は少し苦笑すら漏らして。さすがに好意を利用するだけして、身体だけを身代わりのように貪って、その上怪我まで負わせるのは申し訳ないな、なんて思うのは偽善もいいところなのに。
しかし、覚悟して、少しでもましなようにと腹筋に力を入れて受け止めたはずの衝撃は、思っていたものと違っていた。
脇腹あたりに突き刺さるはずの鋭い痛みは、いつになってもこない。
そのかわりにトン、とよろめくような軽い感触でぶつかってくる何か。
目に入ったのは、かっちりと固められたオールバックの栗色の髪。
そして。
「ふっざけんな、お前みたいななまっちょろいオタク男にやられるほど、こっちは伊達に場数踏んでねえんだっつの!」
そう啖呵を切る声は、一瞬で久我を高校生に引き戻す、懐かしいそのひとの。
そうだ、そのひとはいつも、派手に染めた髪を生意気だと難癖つけてくる連中を相手に、小柄ながらも一歩も引かずに暴れていたっけ。その敏捷さを活かして恐ろしく喧嘩が強く、なんだかんだ言って最終的には周辺の半グレ達からも一目置かれていたんだっけ。
鷹衛が、久我の前に立ちはだかって、突進してきた刃物男をガッチリと両腕でホールドしていたのだった。
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