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鶯谷は上野駅から徒歩で行き着くことができる大人の街だった。多くのラブホテルが軒を連ねる中心では、活気に溢れた酒屋が点在している。焼き鳥屋に向かった2人は店の外にある大きなドラム缶の上に並ぶ料理に舌鼓を打っていた。 「いいね、朝田のおすすめっていうからどんなところかと思えば。」 レモンサワーを口に含み、アルコールで頬を赤く染めた佳奈恵は言う。セブンスターに火をつけ、智哉は笑って言った。 「なんだその言い方。ここ本当に美味いんだからな。特にこれ、鳥のハツ串。」 人間は欲求をどこまで追い続ける。まさか鳥たちも自らの心臓が人間の食物になるとは思っていなかっただろう。 平たい石のような肉を頬張ると、とてもよい歯ごたえと風味が口いっぱいに広がった。ついビールに手を伸ばして喉越しを組み合わせる。大人でよかったと思える瞬間はこの程度だろう。 「本当だ、美味しいね。」 大勢のサラリーマンがそれぞれのドラム缶の周りではしゃいでいる。2人の真上に伸びる坂道でトラックが駆けていった。 「今日、奥さんは大丈夫なの。」 「ああ。パートの同僚と飲み会に行くって言ってたから。」 現在美希は自宅から徒歩6分程度の場所にある木下ベーカリーというパン屋で働いている。時折新作のパンが出るとその晩食卓に並ぶものだ。佳奈恵は頬杖をついて言った。 「ダメな人だね、奥さんがいないところで。」 ワンピースの襟が真ん中で少しだけ切れており、佳奈恵の乳房が一部目に入った。触れてしまえば自分が壊れてしまいそうなほど危ういクレバス。視線を引き剥がしてフィルターを噛んだ。 「そっちこそ。旦那は。」 「高校の友達と飲みに行くって言ったもん。理由としては在り来たりか。」 誰にも見つかってはならない、そんな秘密の関係でありながら2人は高らかに笑った。これが不倫という禁じられた遊びなのだとしたら、3ヶ月後に戻れるのかどうかが不安である。なるべく考えないようにジョッキの縁を口につけた。泡のなくなった酒が喉を滑っていく。 「あのさ、私たち下の名前で呼び合わない?苗字で不倫続けるってなんだか燃えないでしょう?」 何が2人の関係を燃え上がらせるのかは分からないが、仕方なく智哉は頷いた。3ヶ月間のわがままなら安いものである。 「分かったよ、佳奈恵。」 「いいね。智哉、あーなんか恥ずかしい。自分で提案しておいて。」 再び声をあげて笑って、2人はその夜何度目か分からない乾杯をした。
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