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薄いクラシックを垂れ流す室内で、智哉はソファーにもたれていた。あれから場所をベッドの上に移し、2度目の絶頂を迎えてから20分あまりが経過した。汗がついたところをボディーソープで洗い流し、疲労感をニコチンで癒す。シャワーが床を叩きつける音が止んだ。 「すごい激しかったね。もう腰限界なんじゃないかって思ってたけど。」 筋肉は使わなければ退化していく、単純な作りだ。毎晩美希と体を重ねていることが生きたのだろう。 「そっちは体調、大丈夫なの。」 既にワンピースを着た佳奈恵が隣に腰掛け、側頭部を智哉の肩に置いた。じっとりとした汗の匂いが香る。 「結構大丈夫そう。言ってもまだ3ヶ月あるからね。」 もう、まだ、これはお互いどちらが正しい使い方なのかは分からない。まだ余裕があるという本人、もう時間がないと少し焦る他人、この場での正解は前者なのだろうか。佳奈恵は一息ついて言った。 「今日はありがとうね。こんなお手本みたいなデート初めて。」 動物園で浮かんだ疑問が再燃した。智哉は煙を一筋吐いて疑問をぶつけてみることにした。 「それ、本当なの。俺のイメージだと色々な人とデートに行ってるって感じなんだけど。」 中学時代を思い出す。まだ化粧も知らない彼女は少し小さな目に、今よりもふっくらとした顔つきだった。男子生徒よりも声を荒げて笑っている映像が浮かぶ。佳奈恵は頭を持ち上げて言った。 「この性格と、胸のせいだよ。仕方ないことだけどさ、私当時でDはあったの。だから男子は皆私のおっぱいばかり見るし、付き合った男もそう。きちんとした恋愛が出来なかったんだ。相手の家に行ったと思えば皆胸揉んで、セックスして、お互い疲れて、それで終わり。あーあ。私何食べてこんなに育ったんだろう。」 確かに中学時代、彼女の胸はよく男子生徒の間で話題になっていた。水泳の授業があれば皆佳奈恵に注目したものである。智哉は鼻から煙を抜いて悔やんだ。 「ごめん、俺も正直、見てた。」 「別にいいよ、正直仕方ないよね。だって男の人におっぱいがある世の中だったら、女の子皆見ちゃうよ。自分には無いものに視線がいっちゃうのは日本人皆そうだよ。」 そういうものなのだろうか。佳奈恵は笑ってそう答えるが、未だ疑問は消えない。 「今の旦那とは?デートとか行かないの。」 「それがさ。お見合い結婚だったの。」 笹村秀明、35歳。ルーチェ株式会社という家電製品を取り扱う会社で営業部長を務めているそうだ。となると今佳奈恵は、笹村佳奈恵、というフルネームになる。佳奈恵はぽつりぽつりと言葉を漏らすように言った。 「まともなデートなんて一度もなかった。そういうのが苦手らしいんだ。私って女手1つで育てられてさ、お見合い結婚を勧められていざ結婚したら、お母さん亡くなったの。安心したよって。それが最期の言葉だった。でも私は不満しかなかった。お母さんを安心させるためにしがない男と結婚して、何も面白いことなんてなかった。」 姿の見えない佳奈恵の旦那が不甲斐なく思えた。しかし色々な経験を積んだ彼女が言うのだからよほど進展がないのだろう。 「もう4年かな。一度も抱いてくれないんだよ。」 耳を疑って、煙が喉に詰まる。思わず咳き込むと佳奈恵は大きな声で笑った。 「これ本当なんだよね。どうも旦那は未だに童貞らしいの。だからさ、末期の食道癌になったって伝えた時に、もしかしたら抱いてくれるかもしれないって思ったの。死ぬ前に一度は旦那という男に抱かれたい。でもダメだった。ただ私の体を気遣って、まだ元気で、お医者さんにも性行為は大丈夫ですよって言われたのに、何もしてくれない。ねぇ、私ってどこで間違えたのかな。」 佳奈恵の言葉が明るく聞こえたために、余計悲しく思えた。薄いクラシックがトリスタンとイゾルデを奏でていることに、2人は気が付かなかった。
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