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白いヴェゼルが車通りの少ない道を駆け抜けていく。智哉はハンドルを握って目的地の山を眺めた。目の前に聳え立っているものの、距離はまだ遠い。助手席に座る美希は手鏡を掲げて化粧を整えていた。久しぶりのデートだというのに寝坊してしまったと、美希は何度も悔いていた。しかしそんな抜け目のある彼女を好きになったのだ。気にしていないよと言って車を走らせてから既に1時間が経過している。 「もう少し早く来たら桜が咲いていたかもね。」 山道に入り、生い繁る木々を見て美希は呟いた。彼女は交際している時からドライブデートを好んでおり、度々山に行っては散歩をしていた。運転が苦ではない智哉にとっては、長い買い物に付き合うことがないため都合が良かった。 「でもここ、花見するスペースないよ。」 そうなの、と残念がる妻を横に置いたまま、ヴェゼルはスピードを上げて山道を駆け上がる。目的地までは後少しだ。 曲がりくねった道を抜けると、ドライバーが休憩するスペースに到着する。開けた景色に色は少なかった。真っ新な青空、若々しい木々の緑。勢いよく助手席から飛び出た美希は景色を前にして勢いよく体を伸ばした。 「久しぶりだね、こういうところに来るの。」 「そうだね。最近はお互い忙しかったもんな。」 鍵をかけて彼女の隣に立つ。吸い込む空気が体を循環するかのようだった。 果てしない景色を写真に収め、2人は車が立ち入りできない狭い山道に入った。舗装されているとはいえ自然の力には勝てないのか、雑草に覆われたコンクリートを踏みしめていく。一切の音がない木々の中を歩きながら、2人は手を繋いだ。 東池袋中央公園で佳奈恵と体を重ねてから、既に2週間が経過している。あれから何度か会ったものの、セックスはしていなかった。都心部のカフェに行ったり、カラオケを楽しんだりと、まるで学生のようなデートを重ねている。美希とも長い事セックスをしていない。それは自分の罪悪感が原因だった。美希も何かを察したのか、求めてくる回数は減った。もしかしたら自分のわがままでセックスレスになってしまうかもしれない、妙な焦燥感が智哉を蝕んでいく。今回のデートはそれらを一度リセットする意味もあった。 「誰もいないからすごく静かだね。」 車の走行音すらない静寂が2人を包んでいる。木々に囲まれながら智哉は言った。 「ここは冬になると混雑するらしいよ。だからこの時期は穴場だね。」 インターネットで得た知識を聞いて美希は感心した様子だった。 「ちょっとこっち行ってみようよ。」 舗道から逸れた方向を指差し、美希は振り返った。ベージュのカットソーをネイビーのミモレスカートの中に仕舞って、そのスタイルを良く見せる彼女は、まるでモデルのようだった。 彼女に付き添って道から外れると、より一層自然の中に身を置いていると実感できた。踏みしめる草木や枝の感触が心地いい。 しばらく歩くと、先ほどまでいた舗道が少し遠く感じた。何気なく歩いていると突然美希は足を止めた。 「どうしたの。」 歩き疲れたのだろうか。こちらに背を向けながら黙り込む美希は、少ししてこちらを見た。 「やっぱり、我慢できない。」 身を翻してぎゅっと抱きついた美希は、言葉を失くしたかのように唇を宛てがった。久しい彼女とのキスは、美希の唇が薄くも柔らかいことを思い出させる濃厚なものだった。舌を絡め合って頭の中に音が響く。しばらくして唇を離すと、美希は切ない表情でこちらを見上げた。 「こんな私でごめんね。でも、あなたのが欲しいの。嫌われるかもと思って言えなかった。だからずっと我慢していたの。」 ぽろぽろと涙を流し始めた美希は、申し訳なさそうな表情を浮かべて智哉のスウェットトレーナーに顔を埋めた。薄手だからか、彼女の熱が布越しに伝わる感覚がする。 「でももう限界。ねぇ、ここでエッチしたいって言っちゃダメなのかな。」 申し訳ない気持ちが頭の中を駆け巡った。何気ない行動がいつの間にか彼女を苦しめていた。気が付いた時にはもう美希は涙を零して感情を爆発させている。自分が情けなかった。 「ダメじゃないよ。ごめんな。」 素直に気持ちを表すだけで人は心が軽く感じる。安心感に包まれたのか、美希は腕を回して智哉を強く抱きしめた。同じように彼女を縛り付ける。自然と視線が合って、2人は再び唇を重ねた。 今度はゆっくり、お互いを思い出すように。
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