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5月中旬ともなると気温の上下が激しく、日中は20℃を超えているにも関わらず、夜になると一桁に変わる。ジャケットが煩わしく思えた。ワイシャツの袖をまくり、ネクタイを緩める。腕にかけたジャケットが熱を閉じ込めているようで、朝田智哉は何度も上着の場所を変えた。
大学を出て向日葵印刷株式会社に入社し、現在智哉は企画制作部の係長を勤めている。何故か子どもの時は係長という役職があまり良いものではないと思っていたが、意外にもここまで来るのに苦労したものだった。国内印刷会社でもかなり大手であるため、係長といえど給料も待遇も良い。33歳になる智哉にとって今の立ち位置は居心地が良かった。
会社がある江戸川橋から自宅までは約11分。東京都は豊島区、千川の駅から徒歩5分のところに智哉が住むマンションはあった。豊島区は主に池袋のイメージが強いものの、少し道を外れると下町の雰囲気が漂う。千川駅周辺はそれなりに飲食店やスーパーが立ち並んでいたが、非常に落ち着いた街並みだった。自宅までの道のりをゆっくりと歩き、大きな歩道の真ん中で、時折吹く冷えた風に揺られる。やたらと数字を主張するコンビニエンスストアが見えた。
缶コーヒーを購入し、外を出て店舗の端に立つ。腰の高さまである灰皿を確認し、智哉はセブンスターを抜いた。
ここ数年でタバコ休憩が必要かどうかという議論があるものの、智哉にとってはどうでも良いことだった。タバコを自分へのご褒美だと捉えれば、無駄に吸う必要はない。智哉は会社の喫煙所を訪れたことは少なかった。あくまでも労働を終えてから一服する、これが大人の嗜みである。
苦味の強い風味を吸い込み、チープな甘さの液体を口に含む。残った煙を鼻からゆっくりと抜くと、何とも言えない美味さが広がった。子ども達の帰宅を促す放送が遠くから聞こえ、目の前を小学生達が駆け抜けていく。何か流行りのアニメがあるのだろう。皆口々に必殺技のようなフレーズを叫んでいた。
いつの間にかフィルターまで焦がしたタバコを灰皿の中に落とし込み、残りのコーヒーを流し込んだ。自宅までは後3分といったところだろう。のんびりと帰ろう、そう思って歩き出した智哉をとある声が呼び止めた。
「あれ、朝田じゃん。」
聞き慣れない声に振り返ると、歩道の真ん中で1人の女性が立っていた。ふっくらとした頬が涙袋を押し上げているものの、目はぱっちりとしている。すらっとした鼻筋に目立った下唇が妖艶に光っていた。デコルテまでぱっくりと開いた白いレースシャツに薄い青色のロングスカートが風でたなびいている。記憶の中を弄り、智哉はようやく答えを口にした。
「えっと、小森だよな。」
濃い茶色の髪の毛を胸元まで下げ、小森佳奈恵が駆け寄ってきた。大きな乳房が服の中で揺れる。智哉は自然と目を逸らして彼女を見た。
「何年ぶりかな。中学の卒業式以来だっけ?」
そうだね、と答える。となると約18年ぶりであった。
「だってお前、中学の同窓会来なかったもんな。」
何となく2人は並び、道の真ん中を歩き始めた。18年前の記憶を漁りながら世間話を繋げていく。
「なんか苦手だったんだよね。ほら、私色々な噂あったでしょう。」
その言葉を聞いてある噂を思い出した。彼女は俗に言うビッチというやつで、様々な男子生徒との噂が絶えなかった。その様な印象がついた女性が同窓会に顔を出すというのはリスクが高いのかもしれない。
「でもあれってほとんど嘘だろ。」
まぁね、と言って佳奈恵は笑った。今となったら信用に値しないものばかりである。少し大人に近付いた子どもは大人の真似事をするのだ。佳奈恵は肩をすくめて言った。
「ねぇ、ちょっと話していかない?」
彼女の視線の先に全国展開しているカフェがあった。これも何かの縁だろう、彼女と話せていない思い出話だってある。1日の労働終わりに過去を懐かしむというのも悪くはない話だ。智哉は一度だけ頷き、カフェに向かった。
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