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2階の窓際に席を取り、2人は並んで腰掛けた。智哉はアイスコーヒー、佳奈恵はアイスカフェモカを選んだ。一口啜って佳奈恵は言う。 「今朝田って何してるの。」 他愛もない会話である。ワイシャツの胸ポケットから1枚の紙を抜いて前に滑らせた。 「向日葵印刷ってとこ。小森は何してるの。」 「しがない専業主婦です。意外でしょ。」 学生時代に遊んでいた人間が大人になれば落ち着くというケースは珍しいものではなかった。トレイに乗せてきた灰皿をテーブルの上に移し、セブンスターを手に取る。智哉は1本口に咥えて言った。 「でもあれだな。小森、綺麗になったな。」 何気ない感想を口にして、智哉は先端に火をつけた。一度燻らせてアイスコーヒーを流し込む。 「何。もしかして口説いてるの。」 「ならもう少しうまくやるよ。」 そう言うと佳奈恵は口元に手を押さえて大きく笑った。そうだ、佳奈恵は何かおかしいことがあると豪快に笑う癖があった。はみ出して笑う手のひらに1つの輝きを見て、智哉は言う。 「結婚してるんだ。」 意外にも細い指を前に出し、佳奈恵は言った。 「4年前にね。まだ子どもはいないけど。」 少し胸を刺された思いだった。左手に持ったタバコからゆっくりと煙が昇る。 「朝田は?」 「いや。うちもいないよ。」 妻の美希は毎晩のように智哉を求めては子どもを欲しがっている。どちらが原因なのかは、あえて探らずにいた。ぼんやりと窓の外を眺めて智哉は言う。 「そうか、俺たちっていつ子どもが出来てもおかしくないんだよな。」 子どもだった自分たちが18年後に子どもがいるかどうかを話し合う。時の流れは不思議なものだった。 「だよね。いっぱい遊んでた時が嘘みたい。」 夕暮れも相まって2人はどこかノスタルジーな雰囲気に浸っていた。下の通りで中学生が群れを成して歩いている。もうあの時から18年。人は前に進む度に過去を思い返すことが増えていくのに、その数は年々減っていくのだ。 「ねぇ。朝田って子どもの頃の夢って何だった?」 フィルターを噛み締めて智哉は天井を見た。小さい窪みにはまった人工的な光が眩しい。 「無難にサッカー選手だったと思うよ。小学校の時にサッカークラブとか通ってたし。今じゃサラリーマンだもんな。」 先端に溜まった灰を落とし、鼻から煙を抜く。窓からカーテンのような夕日が射した。佳奈恵は横顔を照らして言う。 「いいんじゃない。小学生の時にサッカー選手を夢見てる男の人たちって今ほとんど夢の中にいないでしょう。大人って割り切らないと生きていけないよね。」 悲しい生き物であると感じた。大人になるということは何かを諦めて行くということなのだろう。それは幼い頃の夢も、好きだったあの子も、仕方なく記憶の中から捨てていくのである。智哉はアイスコーヒーとタバコの苦味を口に含んで背にもたれた。 「大人ってそういうものか。」 ため息と共に煙を深く吐き、天井を仰いだ。それを見た佳奈恵は少しだけ噴き出すように笑って智哉の背を叩いた。布越しに肌が衝突する音が鳴る。驚いて彼女を見ると、佳奈恵は歯を剥き出しにして言った。 「ほら、退屈そうにしない。何事も気からだよ。」 まるで母親のようだった。布団を叩くように背に手をやる。しかし智哉は疲れたように笑った。 「まぁそうは言ってもさ。大人って現状に満足してると平坦に見えるだろ。人生って凹凸がないと生きていること実感しないよな。」 何故18年ぶりに再会した同級生に愚痴をこぼしているのだろうか。妙に俯瞰的に見えて自分の背中が丸まっているのを感じる。大人の背中は見た目こそ広くなるが徐々に縮こまっていくようだ。 「じゃあ刺激的な日々を求めてるって感じ?」 「そういうことになるね。」 タバコを灰皿の底に押し付け、口端から残りの煙を吐き出した。とは言ったものの平坦な道に慣れた人間はいきなりの急勾配に驚いてしまうものである。友人から風俗などの誘いも受けていたが、今歩いている道の先が突然屈すると考えた時に恐怖を覚えてしまう、そういう性格なのだ。 「それじゃあさ。」 椅子をこちらに向け、足を組んだ佳奈恵は頬杖をつきながらこちらを見た。 「私と3ヶ月だけ不倫しない?」
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