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美希に連絡を入れ、蔵しげに入る。既に大勢のサラリーマンが群れを成してアルコールを摂取していた。店の中央に席を取り、2人は向かい合った。 「これですよ、豆腐ステーキ。ポン酢かけちゃっていいですか?」 ジャケットを脱いでネクタイを緩ませる寺内の言葉に、智哉は頷いた。ジョッキに注がれたビールを口に含んで喉越しを感じる。焼き目のついた豆腐の上には大根おろしが壺のように置かれて、しらすがまぶしてあった。寺内が瓶を傾けて茶色に染まり、大根おろしが形を崩す。どうやら周りの客も新メニューの豆腐ステーキを頼んでいるようだった。 「うわ、この味っすよ。」 満足そうに咀嚼する寺内が幼く見え、智哉は鼻から息を抜いて笑った。割り箸の先で豆腐を崩し、茶色に彩られた大根おろしと共に口の中へ運ぶ。醤油で焼いているのか、様々な風味が口いっぱいに広がった。 「係長。なんか悩み事でもあるんですか。」 何故その質問になったのかが分からず、頭の中に浮かんだ佳奈恵をすぐさま振り払う。どこか薄い茶色を含む髪を後ろに流した寺内はソフトパッケージのマルボロから1本抜いて火をつけた。 「どうしてそう思うの。」 「いや、俺の勘です。なんか会議中も別のこと考えてそうだなって。」 まるで心の中を見透かされているかのようだった。智哉はこの日、何かをしていても佳奈恵との不倫関係をどうするか考えていたのだ。了承するべきか、しないべきか。寺内を信頼しているが故に、智哉は全てを話した。18年ぶりに再会した同級生から不倫を持ちかけられていること、そんな彼女が末期の食道癌で余命が3ヶ月だということ。黙ったまま話を聞いていた寺内はビールを口にすることなく、煙を吐いて言った。 「でも、美希さんのことはどうするんですか。」 寺内は智哉の自宅に来たこともあり、美希も一緒に3人で食事をしたこともあった。彼女も寺内の誠実さを気に入っている。 「子ども欲しいって言ってるしなぁ。正直どうしたらいいか分からなくてさ。」 黒い灰皿の淵に置いたタバコの先端から煙がゆっくりと昇り、向かい側にいる寺内の顔の上を駆けていく。寺内は豆腐ステーキを口に運んで言った。 「3ヶ月後に美希さんを真正面から愛せる自信があるなら、してもいいんじゃないんですか。」 意外な回答に智哉は驚いてしまった。茶化して言ったわけではないのだろう。至って真面目な表情のまま彼は続けた。 「知ってからの後悔と、知らないままの後悔ってダメージ違いますよ。もしこのまま何もしないでその相手が亡くなったら、係長はすごい後悔するんじゃないんですか。彼女を抱いておけばよかった、不倫しておけばよかった。これから会うことなくいなくなってから悔いても、手遅れっすよ。」 確かにその通りだった。しかし美希との家庭もある。後悔したくないという理由で家庭が崩れてしまえば、どちらも失うことになるだろう。浮気や不倫の経験がない智哉は恐る恐る言った。 「美希との関係は壊したくない。でもこのままあいつが3ヶ月後に亡くなってしまうのは、もっと嫌かもしれない。だって死ぬんだぞ。」 「なら、バレないように不倫したらいいじゃないですか。なんか俺不倫推奨してるみたいであれですけど、後悔って一生纏わりつきますよ。」 何故か寺内の言葉には説得力があった。どこか無邪気で頼れる後輩だと思っていたが、妙に正しく思えてしまう。探るように智哉は言った。 「寺内は女性と何かあったのか。」 そうですね、と一言呟き、ジョッキの奥に残ったビールを飲み干す。口を尖らせて息を吐き、寺内は言った。 「俺この会社入る前まではビューティアっていうところでアパレルデザイナーやってたんですよ。」 聞いたことのある会社名だった。確か海外のブランドで、10年ほど前に日本に上陸したらしい。美希もそのブランドの服を何着か持っているはずだ。 「今じゃメテオーラとも肩を並べるくらいに成長しましたけど、これからって時に俺、女性関係でちょっと。」 「まさか、不倫したのか。」 寺内は笑って手を横に振った。フィルターを噛み締めて煙を吸い、鼻から抜く。 「すみません、ビール2つ。そうじゃないですよ。俺は10年ぶりに再会した女性に振り回されて。何もアイディアが浮かばなくなって、仕事辞めたんです。」 彼の恋愛事情に興味があるわけではなかったが、それでも気になってしまう内容だった。どこか遠い目をした寺内に、智哉は言った。 「それで、その女性とはどうなったんだ。」 「一昨年、亡くなりました。」 呆気に取られてしまい、智哉は何も言えなくなった。店内の喧騒が遥か向こうに感じる。 「事故だったみたいで。係長、俺今でもすごく後悔しているんです。もっと何か出来たんじゃないかって。そうなってからじゃ遅いんです。」 だから寺内の言葉に説得力があったのかと、智哉はため息をついた。俺は佳奈恵が亡くなった時にどんな後悔をしたらいいのか、答えは意外にも簡単に出た。 「そうだな。分かった、してみるよ。あいつと何もせずに後悔するのは嫌だからな。」 「じゃあ何かあったら俺に言ってください。係長の不倫に協力しますよ。」 どこかおかしな発言に、2人は仕方ないといった感じで笑った。 もちろん美希のことは変わらず愛している。だからこそこのまま佳奈恵と会うことなく彼女が亡くなってしまった時、重たすぎる後悔が伸し掛るだろう。罪を犯す覚悟を決めるかのように、智哉はタバコの煙をいつもより深く吸い込んだ。
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