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佳奈恵と連絡を取り、智哉は上野駅に降り立った。土曜日ということもあって人混みが敷き詰められている。携帯を抜いて暗い画面に顔を写して髪型を確認した。Tシャツの襟に提げた伊達眼鏡をかけてキャップを被る。黒いジーンズのポケットに携帯をしまって周りを見た。もしかしたら見られているかもしれない、そんな危機感が胸の中でざわめく。 「お待たせ。」 右手から声をかけられて振り向くと、どこか赤く、それでいて桃色のワンピースに身を包んだ佳奈恵がこちらに駆け寄ってきた。ふっくらとした乳房が上下に揺れ、慌てて目を逸らす。 「動物園って、在り来たりすぎないか。」 手を繋ぐこともなく並んで歩き始め、智哉は言う。大勢の人間が上野動物園に向かっているようだった。博物館や美術館の並ぶ大きな敷地内に詰め込まれた人々、ここは春になると満開の桜が咲く。これ以上の人混みを想像して智哉はどこか寒気を覚えた。人間は誰しも群れに飛び込むと安心する生き物である。 「だって私、こういう在り来たりなデートしたことないもん。」 「嘘つけ、旦那としてるだろ。」 けたけたと笑って、2人は動物園の出入り口に向かった。まるで競走馬を堰き止めるかのような柵に観光客が吸い込まれていく。この中に今現在不倫をしているという男女はどれほどいるのだろうか。 日本で最も古いと言われる上野動物園は1882年に開園し、以降500種あまりの動物を飼育している。度々ワイドショーなどで取り上げられるパンダはこの動物園において多大なる影響を及ぼしており、飼育しているパンダが亡くなると入園者数が300万人を切るらしい。お気に入りの子が別店舗へ異動した為に通わなくなったという風俗が好きな同僚の言葉を思い出す。人間は常日頃から非情な生き物だ。 広大な敷地内を、人々の流れに沿って歩いていく。佳奈恵はまるで女子のようだった。大人の女性というわけではなく、無邪気な子どものように、檻の向こうにいる動物を見ては笑っている。彼女も33歳、立派な大人である。にも関わらずこちらを見る表情には幼さがあった。 「ねぇ。ゴリラって元々未確認生物だったって知ってる?」 密林を思わせる洞窟のような建物の中で、ガラスに手を置いて猩々を見る佳奈恵は言った。 「UMAだった、ってこと?」 「そう。19世紀まではジャングルの奥地を探検できなくて、学者の間ではそんなに大きな猿がいるわけないだろって言われてたんだって。」 確かに猩々の知識がなければ、人間を超えるサイズの類人猿がいるとは考えられないことだろう。黒い体毛に覆われた小さなゴリラが母親を探しているらしく、智哉の隣で小学生ほどの男の子が叫んでいる。ママはこっちだよ。智哉は何となく言った。 「随分詳しいんだな。」 人の流れに身を任せてガラスの前から離れると、佳奈恵は寂しそうな表情を一瞬だけ浮かべた後に背を向けた。 「こういうデート、本当にしたことなくてさ。だから昨日の夜に色々と調べたの。何だか男っぽいよね。デートの前に色々な知識を入れておくなんて。」 本当に彼女は動物園でのデートという定番な流れをしたことがないのだろうか。中学生の時から様々な男子との噂が絶えなかった佳奈恵からは想像がつかない。 それから数時間、様々な動物を眺めてはしゃぐ彼女を見て、智哉は複雑な思いを拭えずにいた。
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