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オメガバースなんて。
未確認飛行物体並みの都市伝説だと思っていた。
政治家や大富豪、ハリウッドセレブたちにそういう特性を持った人がいると聞いたことはある。
しかし噂ばかりで確証はなく、日常生活でそんな存在に会ったことはない。
だから、安心していた。
目の前にある世界が現実。
それ以外にないのだと。
「あのさあ、内田さんってもらわれっ子なんだって。ママに聞いた」
誰がそう言ったのかは覚えていない。
どこにでもある、仲間内の話題。
かなり意地の悪い陰口。
内田治佳。
地味な同級生。
背が高くて太り気味で、猫背で俯き加減。
夏休みにみんなで遊んだとき、私服姿のイケてなさに心底同情した。
これといった欠点はないのでいじめられることはなかったようだが、いつもグループの末端で愛想笑いしながら相槌ばかり打っていて、時々見ていてイラついた。
そして、気付く。
彼女が、当時すでに自分と公認の仲だった夏川に片思いしていることを。
どこまでも付きまとうねっとりとした視線が煩わしいと思ったけれど、それよりも彼女に対する優越感がとても心地よかった。
夏川は私に夢中だ。
ほかにもこっそりアプローチをかけた女子がいるのは知っていたが、誰も私にはかなわない。
だから、悔しそうなさまを見て楽しんでいた。
馬鹿な子。
どんなに欲しがっても、どうすることもできないのに。
しかも、貰われっ子?
虐待はされていないようだが、うまくもいっていないとなんとなく見て取れた。
家庭環境が複雑で、幸薄そうな、内田治佳。
たいして親しくもないから、いつの間にか彼女のことは忘れた。
「ねえねえ、内田さんって覚えてる?C組の内田治佳さん。あの人、今すごい暮らしをしていたのよ、驚いたわ」
久々に高校の同窓会に出てみたら、一番最初の話題がそれだった。
「・・・内田さん?」
覚えていないのは私だけではなかった。
幾人かが首をかしげる中、幹事の一人が興奮気味に続けた。
「なんと大手食品会社の創業者一族のお嫁さんになっていたの!この間テレビ番組でお金持ちのお宅拝見っていうのがあって、それに出ていたのよ。とても素敵な旦那さんとキッズモデルもやってるお子さんたちに囲まれて、すごくキラキラした奥様で、ついつい全部見ちゃったの。最初は内田さんってわからなかったんだけど、名前の漢字と読みが独特でしょ。妙に引っかかって検索したらビンゴだったの」
その後つてをたどって連絡先を突き止め、同窓会の招待状を送ってみたという。
「だからね。今日来てくれるのよ、すごいでしょう!!」
まるで、サプライズゲストを呼んだかのような様子に、呆れた。
あの人が玉の輿に乗ったからってどうだっていうんだろう。
しかしその直後に起きた周囲のざわめきに、自分の認識が甘かったことを知る。
「すごい・・・」
「あれが、内田さん?」
小さく漏れる、感嘆の声。
視線の集まる先をたどって息が止まった。
内田治佳。
彼女は全くの別人へと姿を変えていた。
高すぎた身長は背筋を伸ばすと逆に長い手足を強調することになり、程よくバランスの良い体と手入れの行き届いた肌と身にまとった高級な衣装で輝き、実際の年齢よりずっと若く見える。
金の力にあかせて多少整形したとして、それがどうだというのだ。
誰にも何も言わせないだけの完璧な美を、彼女は手に入れていた。
芋虫が蛹となりふか羽化して蝶になる。
それを体現したのだと、誰もが思った。
「小杉さん、結婚して何年経つの?」
旧姓で呼ばれてはっとする。
同窓会の後、なぜか自分だけ誘われてホテルのラウンジにいた。
「大学卒業してわりとすぐだったからもう十年くらいね」
内田治佳。
いや、もう違う。
御曹司の苗字はなんだか由緒ありげな響きだった。
「そうなの・・・。高校から今までずっと二人だなんて・・・すごいわね」
心底感心しているふりをしているのは見え見えだ。
あからさまな揶揄を感じ取り、不快になった。
夏川と結婚して十年以上経ったけれど、子供がいまだに授からない。
三年目を過ぎると周りにせかされて、しぶしぶ不妊治療を始めた。
最初は病院へ行きさえすればすぐに解決すると思っていたのに、それは出口の見えない迷宮に入っただけだった。
これといった原因がないのだ。
いくつも病院を変えて、治療法も変えて、薬も、子宝祈願も、体質改善も、少しでも良いと言われることは何でも試した。
だけど、うまくいかない。
度重なる治療と流産に体調を崩し、正規で働いていた仕事をやめたが生活のためにパートに出ている。
つぎ込めるだけのお金をつぎ込み、貯金はもう底をついた。
まるで、賭け事にはまっているみたいだ。
今度こそ、今度こそと挑むたびに私たちは何かを失っていった。
処方される薬の副作用のせいで太った上肌も荒れ、外見はみるからに衰えた。
死にかけの野良猫みたいな私から目をそらす夫。
続かない会話。
いつのまにか分かれた寝室。
私たちはこんなにボロボロになっているのに、周りは言う。
子供はまだ?
子供がいて、一人前。
子供がいないからわからないのよ。
長い春だねとも言われるが、もうそんなものどこにもない。
ただひたすら、生殖だけを考え続けた日々。
恋も愛も枯れ果てて。
残されたのは意地だけだった。
だから。
私たちは、誰よりも、幸せであらねばならない。
「私、むかし夏川君が好きだったなあ」
目を向けると、手を口元で組み合わせて彼女が笑う。
専属のネイリストにケアされて綺麗に塗られた爪。
家事なんて一切していない細くて長い指。
夫の会社の役員報酬で贅沢三昧だと、誰かがうらやまし気にため息をついていたのを思い出す。
「顔だったのかな、身長が高いところだったのかな。理由はもう覚えていないけれど、あの頃とにかく大好きだった。それで小杉さんに嫉妬して勉強も手につかなくて成績もガタ落ちして、両親からは責められてさんざんな毎日だったな」
そんなに楽しそうに語ることだろうか。
遠い思い出話だから?
「でも、彼に相手にされなかったり学校にも家庭にもなじめなかった原因も、大人になってわかったわ」
人影に紛れていつもこっそり私たちを見ていた同級生。
同じ人のはずなのに、何もかも変わってしまった。
高校生時代と今の違いはいったい何だろう。
「だって、所詮はあなたたちベータだものね」
今、この人は何て言った。
ベータ?
だから何?
「実は私・・・」
ちらりと周囲を見回し、声を落として囁いた。
「オメガだったの」
どんなに抑えていても、勝ち誇った気持ちはあふれ出す。
「とても優良な遺伝子を持っていると解って、人生が一転したわ」
シンデレラにはガラスの靴を。
白雪姫と眠り姫には王子のキスを。
親指姫には…。
数え上げたらきりのない、つまらない結末。
なんてくだらない。
「夫の一族はもちろん子供たちも、アルファで」
ああ、もう聞きたくないのに。
「今、とても幸せなの。ここが私の居場所だったって」
ようやく気付いた。
彼女は、このために現れた。
私の息の根を止めるために。
アヒルの群に紛れ込んだ白鳥は、結局仲間になることはなかった。
いつか己の本質と優位性に気付き、古巣を捨てて旅立つだろう。
あの後。
どう返事して、彼女と別れたか思い出せない。
ただ、家に帰り着いて、壁に力いっぱいバッグを投げつけたところからは記憶がある。
ちいさなバッグの口が開いて、中身が床に散らばった。
その時に、内田治佳からもらった名刺がふわりと飛んでつま先にあたる。
洗練されたデザインで丁寧に箔押しされたそれは、裏に役員として在籍している会社の連絡先まで明記されていた。
また会いましょう。
東京に出てきたら連絡してね。
そんなつもりはこれっぼっちもないくせに。
成功のあかしを私と夏川に見せつけたいだけだ。
拾って破り捨てようとしたその時、ふと、ひらめいた。
家族に大切にされていないもらわれっ子。
オメガ。
社会的優位性。
変転して、出世した今。
オメガバースの世界の掟などしらない。
だけど、人間のことなら多少はわかる。
この長い間、闇ばかり見つめてきた。
だから。
これは直感だ。
優性階級の家に生まれたベータの赤ん坊は、捨てられる?
実際、彼女が自慢した子供たちはみなアルファだった。
でも、もしベータの子が生れたなら。
子供を捨てるなんて、有り得ない。
私なら喉から手が出るほど欲しい。
だけど、優位性が矜持の彼らなら・・・。
闇に葬りかねない。
もはや、これは確信だった。
内田治佳の名刺をテーブルに置き、そして財布の中から一枚の診察券を取り出して並べた。
数日前に、門戸を叩いた不妊治療のクリニック。
一通りの診察を終えて、院長がぽつりと言った。
「夏川さん。あなた、まだ若いけれど、さんざん治療してもう疲れたでしょう。正直なところ、あなたの子宮はぼろぼろだ」
カルテを眺めながら彼は続けた。
「どうだろう。養子を迎えるという道を考えたことは?」
それは、衝撃だった。
いきなり殴られたようなものだ。
言葉の意味をようやく理解した瞬間、女としてもう駄目だと言われたのも同然だと、腹が立った。
「ああ、私の言い方が悪かったね。でも、そういう選択肢も今のうちに考えた方が良いと、あえて言わせてもらいますよ」
そして、彼はゆるりと笑った。
「ここに来る患者さんみんなに言っているわけではありませんよ?ただ、夏川さんならと思って」
怒りで震える私に、彼は囁く。
「治療をちょっと休憩している間に、とりあえず、ひとりいたら気が楽になるんじゃないかなと私は思うんだけどな」
暗くて、甘い。
「欲しいなと、思いませんか?可愛くて、賢い子供」
とろりと、耳の奥にたまっていく毒。
「誰もがうらやましいと思うような、綺麗な赤ちゃん」
何もかもお見通しだったのだ。
「しかも、生まれたてを手に入れて実子として届ける手立てを我々がご用意しますと、言ったら、どうします?」
蛇が囁く。
どうして、お前はこのうまそうな果実を口にしない?と。
受話器を取り上げ、一つ、一つと、ダイヤルボタンを押す。
あっという間に回線は繋がり、あの医師が電話口に出た。
「きっと、ご連絡いただけると思っていましたよ」
何もかも、お見通しだ。
「あの・・・」
声を絞り出す。
私は今、闇の中に手を伸ばしている。
真っ黒で、不確かな、それ。
だけど、欲しい。
存在意義を。
そして、称賛を。
「・・・私は、何をすれば」
深い、深い、奈落を覗き込む。
奥底から甘い香りがたちのぼった。
ああ、私が探していたのはこれだ。
掴んだ果実を夢中で貪った。
私が。
私こそが、白鳥になるために。
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