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私も慌ててそれに習い位置を決めると、貰った木炭紙に画鋲を貼った
モチーフの形を取り、カラーや花瓶、布の質感なども丁寧に描いていく
中学の時
美術の先生に教わって、初めて生物の絵を描いた
その時は、油で色を付けるから絵はそんなに細密に描かなくていいんだよ、と言っていたな
でも今は鉛筆デッサン
しっかりモチーフを見て正確に描かなくては
ボブヘアーの先生が、さっき話の途中で持ってきてくれた鉛筆デッサンのセットが入ったケースを開いて、鉛筆を握ると、懐かしい感じが蘇った
丸くなった鉛筆の先をカッターで削っていく
人が刺せそうなまでに尖らせた鉛筆
木炭紙に十字であたりをつけたら、モチーフの大体の形を取っていく
形が取れたら面を取って、立体的にさせていくのだ
尖らせた鉛筆を寝かせて面を取る
この面取りの感じが私は苦手で、どうしても線的になってしまうのだ
「工業製品は歪みがないよ」
声に、はっとして振り向くと
中腰になり、私のデッサンした絵を真っ直ぐ見ながら指摘する先生
黒髪をセンターで分け、ダンガリーワンピースを着た、純朴で真面目そうな人物
「花瓶は円柱に例えてみると分かり易いけど、花瓶の口の部分、底の部分も少しゆがんでる
正中線はずれないから、鉛筆であたりをつけて描いてみて」
そうなんだ
よく美術で円柱や三角錐のデッサンを描くのは聞いたことあったけど、私の中学ではそう言うデッサンはやらなかった
よく考えたら
美術の、基礎知識って言うのが、私にはない…
悪戦苦闘しながら
気付けば、まさに学校のようなチャイムが予備校の教室に鳴り響く
その瞬間、みんな鉛筆を置き、身体をほぐしたり、携帯をチェックしたり…思い思いに動き出した
「では今から一時間お昼休みでーす
昼食持ってきてる人は教室で食べて大丈夫ですよ!外出する人は13時にはまたこの教室に集合して下さーい」
たかが三時間集中して絵に没頭しただけで、疲労感が襲う
絵を描くだけという行為を、はたから見れば楽に見えるかもしれない
けど、その行為をしている本人は、はたから見る以上に重労働
マラソンを全力疾走しているような感覚
ここの人たちにとって絵を描くことは、単なる娯楽などではないのだ
目頭を揉みながら、エレベーターに向かう
殆どの生徒は、みな一様にお弁当を持参していた
私はそんなこと大宮くんから一言も伝えられていなかったので、持ってきていない
近くにファミレスや牛丼屋が、都内なら沢山あるだろう
そこで昼食を摂ろう
エレベーターで一階まで降りると、自動ドアの手前
壁に背中を預けた体勢で、大宮くんが携帯を弄っていた
私が自動ドアの前で立ち止まると、大宮くんは、あっ、と気づき、携帯をポケットに入れて自動ドアに向かい合った
「お昼持ってきてないよね
近くにコンビニあるから買いに行こう」
やはりというか、どうやら私を待っていてくれたらしい
一緒にビルを出て歩き出す
お互い無言で、私は一歩引いて大宮くんに着いていく
お昼の東京は雲ひとつない晴天で、日差しが強く、服の中の肌が汗ばむ
着ていたパーカーを脱いで腰に巻きつけた
5月の、少し乾いた風が身体に当たって気持ちいい
大きな交差点の横には首都高が走っている
見上げる空は高いビル群ばかりだ
閉鎖的な田舎で、抑圧された地元から離れた私は今、すごく開放感に溢れていた
自由で、洗練された街並みで、でも、所々街の定食屋さんなんかがあったりして親しみやすくて
こんなところに住みたいな、と思った
「あ、そーいえば、名前は?」
私はさっき人聞きして大宮くんの苗字は知っていたが、一応名前を聞いておいた
「え…?今更?知ってるかと思った
同じクラスなのに
大宮って言うんだ、大宮美幌(おおみやみほろ)」
同じクラスでも、基本はコースによって分かれているから
クラスの子と会うのは、朝のホームルームと帰りのホームルームくらいだし
それに私の場合は友達もいないし、クラスの子の名前なんか正直興味ないし、覚えてこなかった
「私は赤羽佐和子、宜しくお願いします
ねえねえ
大宮くんは、いつからあの予備校に通ってるの?」
交差点を左折してちょっと行った、渋谷区と新宿区の境目あたりに真新しいコンビニがあった
そこで品物を選びながら話しかける
「昨年から、毎週末だけ」
そうだったのか
毎週末、あの田舎から東京に出てきてまで、予備校に通ってるなんて
「ところで、体験学習はどう?」
「ああっ、…うーん、難しい!
模写をただ単にしてるだけじゃダメなんだなと思ったよ
中学ん時とか小学生の時、ポスターとか夏休み描かされたりするじゃん?
私さ、それ毎回賞もらってたりしたし、だから自分の中では絵は上手い、得意な方だと思ってたんだ
けど
全然だ、まだまだ勉強すること沢山あるよ」
そう
午前中、あの空間でみんなとデッサンをして思ったのは
明らかに私は、基礎デッサンの知識が無さ過ぎることだった
絵が好きなのと
絵が得意なのは、明らかな違いがある
私は今まで、絵が得意、上手いと自負していたつもりだったけど
そんなのはただの奢りに過ぎなかったのだと感じた
「…今まで見てきた世界とは全く違う…
学校で習う美術の授業が、いかに表面的なことしかやっていなかったのかがわかる」
「うん、それに大学で専攻したい学科、どの科に受験したいかでも勉強する内容が違ってくるよ
油、日本画、デザイン、造形とコースが分かれてるからね
後、詳しくはよく知らないけど、うちには建築や映像、現代美術を教える科もあるよ
俺は今、油コースだけど、大学も油科に進む
大学に入って、油の勉強をしながら教員免許を取得する
で、ゆくゆくは海外に留学できたらいいなって」
「海外!?」
「うん、フランスに行きたい
本場で、本格的な勉強を学びたい
そして、そこで学んだ絵やスキルを、画家をしながら子供達に教えてあげる学校の先生になりたいんだ」
初めて聞いた、大宮くんのしっかりした将来ヴィジョンに私は驚いた
だってそんな雰囲気は微塵もないからだ
いつ買ったかわからないパーカーに、セットもしてない髪の毛
食事だって、今、手に持っているのは、特保のお茶と駄菓子コーナーにある酸っぱい味のするイカと、小さいサイズのカップ麺と言う、健康に気をつけているのかいないのかよくわからないメニューだし…
あまり自分のことに興味ない人だと思ったんだ
でもその将来の話をする大宮くんは、きらきらと輝いて見えて…
そんな大宮くんと、キャンパスで自分の好きな科に入って勉強している自分を想像する
すごく自由で、楽しそうな雰囲気
「美大…行きたい
私みたいに絵が好きな人同士が集まるキャンパスで、切磋琢磨しながらみんなと勉強したい
絵を描くのは疲れるけど、それ以上にすっごく楽しくて
充実感っていうのかな?
描いてる疲労も忘れるくらいに、気持ちが満たされるんだ
改めて思った
私、絵が好き
絵だけ勉強出来る環境で過ごしたい…
予備校の人たちみたいに、もっと絵を勉強したい…絵を描きたい…
美大に行きたい…!」
大宮くんが笑った
「鼻の穴、すごい開いてる
興奮しすぎ」
なっ
私は慌てて口周りを覆った
っもう、女の子相手にデリカシーってもんがないのかなあ!
猫のように飄々として、無気力というか、アンニュイな雰囲気なのに
自分のやりたいことが明確で、それに突き進む闘志
その変なギャップに惹かれている自分がいた
一つは、私もそうなりたいと、指針のような人物と言うこと
もう一つは、単純に、キャラクターの個性に
「…初めて君を見た時、すごく楽しそうだった」
「え…?」
「楽しそうに絵を描いてて…純粋に絵が好きなんだなって思ったんだ
俺の周りは、楽しそうに絵を描いてるやつ少ないから
みんな受験に向けて、ひたすらに寡黙に真面目に絵を描いてる人だから」
「それ…
私は能天気だ、お気楽だって意味?」
「なんでそうなる
違う、羨ましかった
本来、自分の好きなことなら、そうじゃなきゃならないのになって思ってさ」
大宮くんが眉間に皺を寄せながら笑った
「だから君を予備校に誘ったってのもあった…
キラキラした世界を
もっと見せたくて
そんな君を見たら
俺もキラキラ出来ると思ったから」
え?
なにそれ、どういう意味?
「あ、珈琲飲もう」
唐突に大宮くんはそう言うと、レジ横でレギュラー珈琲を入れている
私はハムに巻かれたオニギリと飲み物を買った
二人並んで、コンビニの店前に座り込む
昼時のコンビニは混んでいる
楽しそうにお喋りしながらコンビニに入っていくOLの人や、ジャケットを脱いだワイシャツのサラリーマンが、忙しなくコンビニ前の道を行き来していた
右側に見える国道や、上の高速道路では、車が途切れることなく走る
そんな景色をぼんやり見ながら、やたら味の濃いオニギリに無心でかじりついた
「大宮くんはさあ…
なんで美大を目指そうとしたの?」
「えっ…なんで…」
大宮くんは、急に言葉に詰まった様子で俯いた
あれ、なんか変なこと聞いちゃったかな…
「中学の頃…引きこもりで
ま、イジメられてたんだ
で、不登校」
ははっと乾いたような笑いで、私の方に振り向いた
「で、学校殆ど行ってなかったんだけど、担任が美術の先生で、美術の課題だけでもださないか?って言って、自宅でも描けるし、まあいいかなって思って提出したんだ
そしたら入選して…
先生はそれに対してすごい喜んでくれて
それが本当、些細だけど凄く嬉しかったんだよな
ああ、俺って生きてていいのかもって思って
学校にも自宅でも居場所なくて、周りに迷惑かけてばかりで、俺って存在する意味あるのかな、消えた方が周りも親も幸せなんじゃないかなって思ってた時期だったから、余計
先生は他にも色んな賞に出そうと言ってくれた
それで入選する度に褒めてくれた
こんな俺でも、認めてくれる人がいるんだって思えた
それが嬉しかったから、いつしか俺は先生みたいになりたいと思うようになったんだ
先生は美大出身で、当時画家としてグループ展とか出展しながら、学校の先生として働いていたんだけど、進路調査の時、俺は先生のようになりたいと告げたんだ
そしたら、高校は出席日数が足りないから、いいところは行かせてあげられない、先生の力不足、ごめんと
でも美幌が美大を目指してるなら、どこの高校だとか関係なく自分の努力次第で美大には絶対に行けるから、先生は応援すると言ってくれたんだ
そこからだね、俺が美大目指したのは」
大宮くんは話し終わると一呼吸おいた
そんなことが、あったのか…
私は学校にはきちんと行っていたし、絵が好きだったけど、頭が良くなかった
だからあの底辺高校しか入れなかったんだ
この世は上手く行かないもんだよな、と改めて思う
生まれた場所がたまたま田舎だっただけで、私はこの東京に憧れと、劣等感を持つことになった
きっと、東京で生まれたら思わなかった感情だ
出生や環境は選べない
だからこそ、私達は自分で自分の未来を、運命を、切り開いて生きていくんだ
自分の希望のために
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