第一段 あめふりたるアスファルトのにほひ

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 長く垂らしたツイストパーマの髪が、スポーツメーカーのトラックスーツのトレードマークである三本のラインをちらちら隠している。  ポケットに手を入れ、大股で。  肩で風を切るというのはまさしくこのことであろうが、今それを体現するタケルは、そのような優しげな言い回しを知らない。  カミソリのような若者である。歳は、十七。  今年十七歳ということは天地万物の法則に従って、来年十八歳になるわけであるが、タケルはその法則を無視して、来年もまた再び高校二年生を過ごさなければならないかもしれなかった。  どうでもよい。成績も、進学も、担任からの評価も。  タケルには、夢があるのだ。  テッペンを。  彼の生きる世界は、教室の中にはなかった。  その外の、特に夜の地下の世界の、テッペンを。  彼は、その夢を、追い求めている。  狭すぎる上にぎしぎしと音を立てる頼りない階段を降りた先の、シックスティーンのビートが漏れ聞こえる、この世とあの世の境のような安い防音扉。  それを開くと、彼が生きるべき世界が、わっと彼を迎えた。  横隔膜を揺らす低音。  スポットライト。そして、歓声。  ステージの上には、二人の男。  流れるビートに合わせて互いを罵り合い、その韻やリズムを競うフリースタイルバトルだ。巻き上がる歓声の数が、彼らをこの世界に繫ぎ止める。もし、客席を白けさせれば、もう二度とこのスポットライトが作る影を踏むことは出来ない。  一人の男が、圧倒的なスキルで、もう一人の男をやり込めている。上手い。彼の唇から生み出される鋭い言葉が、ねっとりとしたグルーヴとなり、対戦者の首を締め上げて(チョークして)いる。 「それでライム?まるでパントマイム、滑稽なそれは劣勢、ちょっとタイム、冷静になれよ。録音して聴いてみな?平成も終わった今昭和センス丸出しのゼロライフ、駄文悪文いい気分、一人よがりのマスタベ野郎、母ちゃんにバレないようベッドの下に引っ込めときな」  遂に、対戦者の男がマイクを捨てた。  ごとりという大きな音が、スピーカーを通してフロアを揺らす。  大歓声。勝利した男は拳を握り締め、汗を飛ばしながらそれを喜んだ。 「勝者(ウィナー)、ハルト!!」  ボクシングで言うところの審判役の男が、掠れた声を張り上げる。  ハルトと呼ばれた男はフードを外し、短く刈り込んだ髪を見せて笑った。  彼の名を叫び、震えるフロア。すごすごとステージから降りてゆく、惨めな敗者(ルーザー)。足元に転がったマイク。  それを無表情に眺めるタケルの手には、プラスチックのカップに注がれたジンジャーエール。  この爆音と大歓声の中、彼はその泡の弾ける音を聴いていた。  誰もが、この泡のように、生まれては消えてゆく。  どれだけ大物になって、レコードを出していても。消えるときは、呆気なく消える。  ジンジャーエールが、フロアに飛び散った。  それをスニーカーで踏み、タケルは前へ。  飛び跳ねながら歓声を上げる観客が、それを見送る。  地にうち捨てられた、マイク(ゴーハチ)。  それを手に。  足は、軽やかにステージの上へ。  そのまま、昭和の不良のような座り方で、スポットライトを浴びる勝者を睨み付けた。 「——なんなの、その頭。海兵隊?」  タケルの冷めた声が、フロアを鎮めた。  一瞬ののち、大歓声。  新たな挑戦者の誕生と、戦いの継続に、聴衆は沸いた。 「おいおいおいおい、待てよ。タケルだ!皆、タケルだぞ!」  審判役の男が、それを更に盛り上げる。タケルは、ここに毎日のように顔を出すから、ちょっと知られていた。  ただし、彼は、勝者として有名なわけではなかった。 「どの面下げて、そこに上がってんだ」  観客の一人が、罵声を浴びせる。  それを、ちらりと横目で見た。 「永遠の敗者(ルーザー)、タケル!また泥を舐めに来たのか!?」  審判役の男も、マイクを通してタケルの登場を面白おかしく加工して提供する。  タケルが、立ち上がった。  マイクを、口元に。  DJがそれを見て、レコードを回す。  ビート。  それが、身体に入ってくる。 「——聴きな、海兵隊」  タケルの声が、フロアを飛んだ。 「いい気になってるお前のマイ・ショウ、弱い奴負かしてお山の大将、彼女に言わせりゃ短小、可哀想、支払えよ代償、まるで溶けかけのシャーベット、俺が負かすぜ海兵隊(ジャーヘッド)」  テクニックもある。センスもある。詰め込むように刻むスタイルも独特で悪くない。しかし、何かが足りない。  観客は時折歓声を上げるが、同じだけブーイングも飛ばした。  一通りのことを言い終えると、海兵隊頭のハルトがマイクを受け取った。  タケルのライムを、圧倒的な言葉の渦が押し返してゆく。 「よく言うぜシスコン、お前のライムはもはやディスコン、早口すぎて分からんぜ絶望、モンローウォークで帰りやがれ本当、ここじゃエトランゼ、お呼びじゃねえし時間は零時、シンデレラ、妹によろしくな、気をつけな、朝帰りの日は俺と一緒だ」  歓声。跳びはねる聴衆。 「降りろ!降りろ!」  観客のその声が、タケルをステージから引きずり降ろした。 「不屈の闘志も虚しく、タケルはまた負けた!永遠の敗者(ルーザー)、次の挑戦も楽しみにしてるぜ!」  審判役の男が笑いながらタケルを客席へ押し戻した。  揶揄するような視線を浴びながら、タケルは憮然としてフロアの奥の隅に戻ってゆく。  負け犬。  どうやっても、勝てない。  不屈の闘志。  永遠の敗者。  そんなもの、どうでもいい。  タケルは、ただこの地下の世界の頂点を見たいのだ。そうして初めて、地上の世界を仰ぎ見ることが出来る。そう信じていた。  親も、教師も、彼を負け犬扱いした。  人が彼を罵倒し、笑うほど、彼はカミソリになった。  髪は、もう胸まで伸びている。それは、彼の青春のように、ねじ曲がっていた。  ステージの上で一通り勝者を讃える儀式が終わったあと、彼はまた安い防音扉を開いた。  そして、路地裏の壁にもたれかかり、スマートフォンを灯らせた。 「今日も、遅いの?」 「ご飯は?」 「いい加減、帰ってきたら?」 「お父さん、カンカンよ」  一つ違いの妹のメグからのメッセージが、ブルーライトを埋め尽くしていた。  メグは一流有名大学の付属高校に通っており、親にも可愛がられている。言わば、落ちこぼれのタケルと両親とを繋ぐ、連絡役のような存在だった。 「おい、てめえ」  メグに返事をしようか迷っていたタケルの思考を、声が破った。  タケルが物憂げに顔を上げると、そこには海兵隊頭のハルトがいた。 「負け犬のくせに、突っかかってくんじゃねーよ。ダセェな」  そう言ってハルトは顔を歪めて笑い、唾を吐き捨てた。  その顔に、タケルの拳が食い込んだ。  遅れて、長い髪が暴れる。 「てめぇコラ海兵隊、もういっぺん言ってみやがれ」 「やりやがったな。海賊みてぇな髪型してるくせに」  二人の拳が、交錯する。  互いに頭を横に滑らせたから、肘の内側同士がぶつかり、バスドラムのような音を立てた。  そのまま、タケルはハルトの腕を絡め上げ、空いた腹に渾身の膝蹴りを入れた。  そのあまりの威力に、ハルトが膝をつく。 「訓練し直して来やがれ、海兵隊」  顔面に、強烈な膝蹴り。  ハルトは仰向けに倒れ、動かなくなった。 「うるせー」 「ほっとけ、俺の勝手だろ」  伸びきったラーメンのようになっているハルトの傍らに座り込み、メグに、そう返事した。いちいち返事をするのは面倒だが、放置すると翌朝もっと面倒なことになる。  虚しい。  喧嘩に、負けたことはなかった。  ステージの上で負かされても、今、ハルトは伸びきったラーメンになっている。  それが、虚しい。  やるなら、ステージの上で。  マイクを持って、勝ちたい。  タケルは屈みこんで伸びきったラーメンの肩を軽く叩くと、大通りの方へと歩き去った。  客待ちのタクシー。  コンビニの灯り。  女を連れて、酔っ払ったサラリーマン。  その夜が、タケルは嫌いだった。もっと、静かな方が良かった。  クラクションとヘッドライトと罵声が、彼を更に苛立たせた。喉が渇いているから、コンビニに立ち寄りたくても、トラックスーツのポケットには十円玉が何枚か入っているだけだった。 「——クソかよ、俺は」  思わず、呟いていた。  どれだけ自分に対して呪詛を吐いても、誰も助けてはくれない。自分で、何とかするしかないのだ。  自分を高めて、練習して、鍛えて、誰にも媚びず、負けない自分にする。  それを目指すことが、辛うじてこの世界の中に二本の足で立つことを許されること。  やはり、苛立つ。  目の前に、不良グループ。  どうでもいい。道を譲らないなら、割って通ればいい。  しかし、彼らの注意は、タケルには払われなかった。それよりももっと別のものに、彼らの興味は向いていた。 「塾帰りなんて、嘘だろ」 「ほんとは、どっかいい所行こうとしてたんだろ」 「俺たちが、もっといい所紹介してやるよ」  見覚えのある制服を着た少女が、絡まれている。  タケルの学校のものだ。  なんとなく、見たことがある顔であるような気がした。  タケルの苛立ちが、爆発した。 「どけ」  不良グループが、一斉に振り返る。 「邪魔だよ。どけ」  タケルが、無表情で言う。  グループの一人が、いきなり殴りかかってきた。  それを軽く受け流し、胸を膝で蹴り上げる。そのまま突き飛ばし、後ろの男にぶつけた。身体を旋回させながら跳び上がり、猛烈な後ろ回し蹴りを叩き込む。  折り重なった二人が、その衝撃に耐えきれず、倒れた。 「こいつ、やべぇぞ」  不良どもは恐れをなし、逃げ散った。  夜道を歩く女に絡むのは、小物と決まっている。彼らでは、タケルの苛立ちを晴らすことはできなかった。  軽い舌打ちをし、タケルは歩を進めた。 「あの」  長い髪に隠れた横顔を、呼び止められた。  そういえば、少女が絡まれていたのだ。  そのことを、思い出した。 「——なに?」  面倒そうに、喉の奥で答えた。  何となく、声の主を見た。  コンセントに両手を突っ込んだら、このような衝撃が走るのかもしれない。  長い睫毛に憂いのある、二重の目元。夜の灯りに浮かぶ、桃色の肌。それよりもほんの少しだけ、色付いた唇。何も手入れをしていないはずなのに、吸い込んだ光を解き放つかのような黒髪。細く、白い指が、それをひとつ摘んでいる。 「——女神かよ」  タケルは、まだ自分の背骨に流れる電流の支配を拒むように呟いた。  え?という顔を向けてくる少女から、慌てて目を背けた。  彼がいつも入り浸っている地下の世界には、いない種類の生き物である。  その唇が、また咲くように開いた。 「ありがとう。助けてくれて」 「別に」  タケルは、眼を背けたまま、ぶっきらぼうに答えた。  眩しすぎた。  地下の底の底の泥を舐める負け犬には、眩しすぎた。触れてはならぬものだから、関わり合いにならない方がいい。  それなのに、光を放つ女神の方から、触れて来た。 「大丈夫?」  真っ赤に腫れた、拳。ハルトの顔面に叩き込んだときに痛めたのかもしれない。  それを、タケルの父が出張の土産で買ってきたどこかの餅よりも柔らかい手が包んだ。 「喧嘩、駄目だよ。夏川くん」  タケルの苗字を知っていた。そのことも、彼を混乱させた。同じ学校で、しかも手に負えない札付きの不良であるタケルを知らぬわけがないのだが、タケルにしてみれば女神が自分の苗字を呼んだとしか思えず、それに対する反射行動を取るしかなかった。 「う、うるせえ。離せバカ」 「消毒液。コンビニで、売ってるかしら」  少女もまた、痛々しく腫れた拳を思わず手に取ったはいいが、タケルに対して恐怖心があるのか、眼を近くのコンビニの看板に滑らせた。 「ほっといてくれ」 「でも」 「お前に、関係ないだろ。死ねブス」  タケルは女神を振り切り、全力で夜を駆けた。  ブレーキランプに追い付いて、ヘッドライトを追い越して。酔っ払いを突き飛ばし、長い髪を馬の尻尾のように残しながら。  自宅が近付き、その足が緩むにつれ、またタケルの苛立ちが蘇ってきた。ただ同じ高校というだけの、女の子一人に。  あんなにも細くて、か弱そうな女に対しても、自分は尻尾を巻いた。 「やっぱり、負け犬じゃねーか」  ポケットの中を我が物顔で占拠する十円玉を押しのけ、自宅の鍵を取り出す。  その扉の向こうの世界は、彼を認めず、許さない人間の棲家。  そこからの脱却。  タケルは、それを望んでいる。  そして、この先、この夜出会った女神が、彼を導いてゆく。  今はまだ、始まりもしていない。  ただ自室に駆け込んだタケルの心臓が、彼の知らないビートを叩いているだけだ。
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