第一段 あめふりたるアスファルトのにほひ

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 通学鞄も持たず、手ぶらである。ちょっと大きめの制服のズボンの上にTシャツを着、更にその上からお気に入りのジャージを羽織ったが、思いのほか陽射しが近くて歩きながら脱ぎ、腰に巻きつけた。 「珍しいじゃない、タケル」  同じクラスのハルが声をかけてきた。彼女とは幼稚園から一緒の腐れ縁、いや、幼馴染である。メグとは少し違う形で、ハルもまたタケルを手のかかる弟のようにして見ているがある。それをしっかり無視し、タケルは渡り廊下を歩く。 「あんたがこんな時間に来るなんて。今日、槍が降るんじゃない」  同じようなことを言いやがる、とタケルはうんざりした顔をハルのミルクティー色に染めた髪に少し向けた。ハルの目がタケルの視線を捕らえようとする前に、タケルはまた前に視線を戻した。  並んで歩く二人を、他の生徒が見送る。  札付きのワルのタケルとちょっと派手で活発なハルは、幼馴染ということもあり、いい仲だと思われている。ラブコメじゃあるまいし、とタケルは内心思っているが、むきになって否定したときに連中が更に面白がることは明白だから、放置している。 「ねえ、タケル。今日、カラオケ行こ」  とやたら大きな声を出して腕を掴んだりするのも、気にいらない。そもそも、家が近所というだけでこれほど親しくされる理由がないのだ。もちろん、小さい頃などはブランコからどちらが遠くまでジャンプできるか、近所でも気の荒さで知られているボクサー犬が寝ているときにどちらが近くまで近寄れるか、などと危険な遊びを二人でして大人を震え上がらせたものであった。そのボクサー犬も今は耳の遠い老犬となり、すっかり丸くなっているが、そのぶんタケルはカミソリのように尖っていた。  するりとハルの腕を自らのそれから外し、肩をぐいと押して距離を取る。 「馴れ馴れしくすんな。うぜえな」  街の不良どもが竦み上がる、ちょっと眉を下げて凄むタケルの静かな警告も、ハルには通用しないらしい。何がおかしいのかけらけら笑うと、大股になって先を歩こうとするタケルを追いかけ、ツイストパーマの後頭部をひとつはたいて駆け去った。  授業というのも、ちゃんと受ければ面白いかもしれない。一時間目の国語の授業を受けながら、なんとなくそのようなことを思い、二時間目までの間の休み時間を迎えた。  タケルは、その僅かな時間、ねぐらを探すアナグマのようになって校舎を徘徊した。誰もが、この時間にタケルがこの世に存在することを不思議がるような視線を向け、タケルがそれに気付いた気配を示すと、目を逸らした。  こんなものだ。タケルは、思った。こんなものなのだ。自分は、はみ出し者。べつに不良を気取っているわけではないが、学校の連中なんかとは絶対に交われない。誰もが自分を腫れ物に触るような扱いをするし、教師ですらそうだ。何の期待も持てぬタケルに対して教師が望むことといえば、せいぜい問題を起こさずさっさと卒業を迎えてほしいということくらいであった。  休憩時間を全て使い、足の届く限り校舎を徘徊した。二時間目も、三時間目も同じように。そして、四時間目。これが終われば、昼休みである。  チャイムが鳴り終わらぬうちに、タケルは学食へと駆けた。好物のから揚げ定食が目当てではない。 「あれ、タケル。今日もから揚げ?」  また、ハルである。タケルの姿を認めるや、券売機に千円札を突っ込み、から揚げ定食のボタンを押そうとする。 「いい。どけ」  それを押しとどめ、タケルはあたりを見渡す。そして、なにか期待を裏切られたような眼をして、立ち去った。 「――へんなの」  トレイを持ったままのハルが、ぽかんとした表情でそれを見送った。  ちょっと、足取りが鈍い。  いないのか。  これでは、何のために早起きをして登校したのか、分からない。タケルの目的は未だ果たされぬままである。こんなことなら、いつも通り、三時間目くらいから登校しておけばよかった。  そう思って歩くタケルの足が、ある場所で止まった。  図書室。  タケルにとっては、南極か火星くらいに遠い場所である。その半開きになった引き戸の隙間からは、宇宙飛行士すらも見たことがない世界が広がっていた。宇宙飛行士にとって宇宙は大いなる興味と憧れの対象であるし、探検家にとっての南極は目指すべき場所であるのかもしれないが、タケルの目の前に少しだけ開かれている未知の世界は、タケルにとって何の意味もないものだった。  図書室ではない。そこに座る者が、タケルにとっての意味の対象であった。 「あ」  がらりと粗雑に扉を開き、ずかずかと室内に入ってゆくタケルに、その者は気付いた。しかし、タケルはわざと気付かぬふりをし、本棚の前に立つ。適当に本を選ぶふりをし、果し合いのときの宮本武蔵のように全身で気配を聞いている。 「きのうは」  これが果たし合いなら、タケルの負けである。自分からこの場所に立ったくせに、自分に声をかけている、というのが信じられず、振り向けずにいるのだ。 「あの――」  声の主は、戸惑っている。当たり前であろう。タケルは、どのような顔をして振り返ればよいのか分からず、目の前にあった本を一冊手に取り、片方の眉だけを上げて深く眉間に皺を寄せ、ひどく不機嫌そうな表情で振り向いた。 「きのうは、ありがとう。手、大丈夫?」  女神。コンビニの光を真横から受けても、窓ガラスから乱入してくる真っ昼間の日差しを受けても、女神だった。白いブラウスに赤いネクタイはこの学校の全ての女生徒が着用するものだが、彼女は、女神だった。  昨夜タケルが助けた女生徒。やはり、同じ学校だったのだ。  手、と言ったときにそこに向いた女生徒の眼が、丸くなった。 「枕草子、好きなの」  赤紫色になったタケルの拳、それが、しっかりと一冊の本を握っていた。それが何なのか分からず、タケルは曖昧に頷いた。 「ほんとう?わたしも」  女神が椅子を引いて立ち上がり、タケルの方に歩み寄る。思わず、タケルが後ずさる。女神が求めているであろう枕草子なる書物についてのいかなる知識も、タケルは持たない。  梅雨前のうるさい緑が、窓の向こうに覗いている。それを見取り、タケルの広すぎるパーソナルスペースを(ほど)いてゆく。気取り、素っ気無い言葉を吐くこともできぬタケルは、(おのの)いている。それを悟られぬよう意気込み、女神の瞳を覗いている。 「いや、これは、その――」 「でも、意外。夏川くんが、古典なんて」 「べ、勉強を」  それが、タケルの口から出た精一杯の言葉だった。 「これから、勉強を」 「あら」  笑顔が、ぱっと開いた。朝顔には、まだ早い季節である。  女神かよ。またそう思った。もしこの女生徒が女神であるなら、軽々しく名を訊ねるなどという行いは許されぬであろう。だが、あろうことか、女神の方から名乗った。 「わたし、(いぬい)カンナ。よかったら、枕草子、一緒に読みませんか」 「読むって」 「よかったら、教えてあげます。昨日助けてくれたお礼に。勉強するんでしょう?」 「す、するけど――」 「じゃあ、これから、毎日昼休みはここに来ること」  カンナの声はひぐらしのように儚げだが、その言葉には、否応を言わせぬような圧力があった。どんな不良の凄みよりも、地下のライブハウスを飛び交うリリックよりも凄まじいものを感じた。その意味でも、タケルの知る世界にはいない種類の生き物であった。  少しだけ開いた窓から風が吹き込んで、ふわりとカンナの細くて長い黒髪を撫で付けた。その髪がそのままタケルの鼻腔に入り込んだのかと思うくらい、いい香りがした。朝顔ですらまだ早い季節なのに、ちょっと憂いのある金木犀の香り。タケルは、混乱した。昨夜と同じ電流が、背骨を鳴らした。  抗おうとして、必死で抵抗して、ダブステップのように不規則な脈を打つ鼓動を鎮めることに意識を集中することもできず、その黄金色の奔流に押し流された。  押し流されて、うん、と頷いていた。 「よろしい。よかった、これでやっとお礼ができる」  そう言って笑うカンナを、蝉の抜け殻のような顔をして見るタケル。カンナに関わると、季節も何もあったものではない。  混沌。たとえば、ライムをするその刹那のタケルの脳内のような。文字や数字になるその前の、始原の音。それが、タケルの耳を鳴らす。  これを、求めにきたのだ。そのために、わざわざ早起きをし、メグやハルに槍が降ると言われるような面倒を押し、登校したのだ。 「なんで、あんたに」  タケルの示す、最後の抵抗である。あるいは、残された最後の城壁。それを、この女神は軽々と踏みしだいた。 「これでも、文芸部部長なんです。それに――」  カンナの唇が緩やかな曲線を描き、 「――上級生の言うことは、ちゃんと聞かないと」  とまた圧力の高い言葉を吐き、くすくすと笑った。 「上級生」  氷解した。どうりで、同じ学年の教室を休み時間の間嗅ぎ回ってもいないはずである。タケルは今二年だから、カンナは三年ということになる。文芸部部長、上級生というよくわからぬ権威の行使により、タケルは従わざるを得なくなった。  ちょっと、思っていたのと違う。夜の大通りで見たからか、カンナはもっと儚く、大人しく、消え入りそうな印象であった。しかし、今眼の前にいるカンナは、姿形やその声こそ昨日の女神のものだったが、たとえばガソリンのような印象をも受ける言葉を吐く。  何が起きているのか分からぬまま、タケルはカンナに促されるままに手にした枕草子を借りるべく、手続きをした。表紙に、手汗で少し皺が入っているのを悟られぬようにしながら。  夏至にはまだ一ヶ月ほどある。それでも、陽は長い。下校時刻を報せるチャイムと共に、タケルは教室をあとにした。午前中は、授業も案外内容によっては面白い、などと感じる余裕があったものだが、昼休みを境にタケルの記憶は途切れていた。葉っぱ(ハーブ)をやったことのある人間やウイスキーを一気飲みしたことのある人間の体験談を聞いたことがあるが、それに似ていた。  そういう連中が抱えるであろう、ぼんやりとした思考と歩みのビートに合わせてふわふわとグルーヴする脳を引きずりながら、下校する。 「あ、いた。あんた、ほんとに歩くの早い」  また、ハルである。タケルは、面倒そうに眉間に皺を寄せた。幼馴染というだけあり、ハルの扱いはよく心得ている。面倒だからといって突き放せば、ハルはむしろそれを喜ぶようなところがあり、逆に親切にしてやれば、どういう風の吹き回しだ、気持ち悪いとからかわれる。だから、面倒そうにして何も言わないのが正解なのだ。ハルの気が済むまでマシンガンのようなツービートの言葉を吐かせれば、やり過ごせる。そのマシンガンのマズルフラッシュが、タケルの耳を照らす。 「ねえ、今日の昼、何してたの。どこでご飯食べたの」 「べつに」 「べつに、って。あんた、今日変よ。頭でも打った?うわ、そういえば、手、怪我してるじゃない。またヤンキー相手に喧嘩?まったく、あんたは昔から無茶ばかりするんだから。それに、何よ、これ――」  空手経験のある暴走族のメンバーの正拳突きすらも見切ってかわすタケルの反応が遅れた。あっと声を上げたときにはもう、手にしていた文庫本サイズの枕草子はハルに奪われていた。 「枕草子?図書室のやつじゃない。なんであんたが、こんなもん?」 「うるせーな、返せ」 「枕草子、図書室」  まずい、とタケルの本能が、地震を察知した鳥のように危険を叫ぶ。そして、その動物としての勘は、的中した。 「あんた、カンナ先輩と話してたのね」  黒魔導士のような笑みをもらしながら、取り上げた枕草子を掲げ、タケルをからかい始める。 「全校生徒の憧れの的、カンナ先輩よ。文芸部の部長で生徒会長。体育以外は全教科満点。今までサッカー部のキャプテンの鈴木先輩も、バスケ部の村井くんも、茶道部のコウタも、告白した男は全員玉砕したのに。あんたみたいな野蛮な猿、相手にしてもらえるもんですか。うわ、馬鹿。マジで馬鹿。悲しいねー、タケル君の恋は始まらずして終わりましたとさ」  タケルの、目にも止まらぬ突き。これが喧嘩の相手だったら一撃でアスファルトの臭いを嗅がせているところであるが、その代わりにハルが嬉しそうに掲げている枕草子を奪い返した。 「黙ってろ。マジで殺すぞ」  そのタケルの様子に、またとない珍宝を発見したかのように綻んでいたハルの表情が、少し曇った。 「あんた、まさか、マジ?」 「うるせー、お前にゃ関係ねえだろ」  知らなかった。カンナがそれほどの有名人であったとは。この学校に通いながらカンナを知らぬということが、いかにタケルが健康な学生生活から遠い世界で生きているかを示している。  蝿のように飛び交うあらゆる男を撃墜してきた無双の空母。それに戦いを挑む無謀。ハルの言うことは、正しい。  だが、タケルは思う。べつに恋なんかじゃねー、と。  彼は、あの女神を知った。  それだけのことだったのだ。  そのはずだったのだ。  それが、どういうわけか、女神と関わり合いを持つことになってしまった。  彼は、その混沌の深さを知らずに生きてきた。それが、彼を戸惑わせている。だから、自らの心の安寧のため、明日も図書室に行き、混沌の正体を確かめなければいけなかった。  タケルとは、そういう男である。  追随を退ける歩幅を取って、暮れようかどうしようか思案している陽に向かって歩いてゆくタケルを、ハルは追わなかった。
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